民青同盟東大駒場班 1995年駒場祭講演会

学問のこと、社会のこと、日本共産党のこと
母校・東大駒場祭で〜

語り手:不破哲三(日本共産党委員長)

目次

1、駒場(旧制一高)での思い出あれこれ〜記念祭から結婚式まで〜
 ●アメリカ占領下の反骨精神
 ●いまも残る「同窓会館」で結婚式

2、学問のおもしろさをつかむ〜駒場での寮生活のなかで〜
 ●エンゲルスの生命論にどきっとする
 ●理論物理学の話にレーニンが飛び出す
 ●自分の世界観をはかる3つの質問
 ●社会は変わるし変えられる
 ●戦前の歴史教科書は社会のしくみ抜きだった
 ●マルクスと日本の歴史
 ●歴史学の宝物のような日本史
 ●社会の発展は人間の進歩の歴史

3、日本のいまの社会と政治をどう見るか〜「社会は変えられない」ではすまない現状がある〜
 ●日本の社会の2つの異常さ
 ●日米安保体制──アメリカとの関係の異常さ
 ●日本流の経営方式の異常さ──就職の面接試験にみる
 ●労働現場の過酷さも国際的な批判の的
 ●長時間労働と「単身赴任」
 ●日本政府のルール破りにも国際的な批判
 ●「そして地球は」の話

4、日本共産党とはどういう政党か〜私が48年前に選んだ政党〜
 ●党名を変えない政党です
 ●学問を踏まえた政党
 ●国内の権力者にも、外国の横車にも強い政党

1、駒場(旧制一高)での思い出あれこれ〜記念祭から結婚式まで〜

 みなさん、こんにちは。

 私は1949年の3月にここ(旧制一高)を卒業しましたから、それから46年あまりになります。考えてみますと、私は、旧制一高への戦争が終わって最初の入学生で、しかも最後の卒業生ということになりますから、なかなか希少価値のある年次です。

 今日も、いろいろ思い出しながら学内を歩きました。だいたい戦後最初の入学でしたから、2月の入学試験が終わったあと、文部省とアメリカの占領当局のあいだでトラブルがありまして、試験結果の発表がない。いつあるかもわからないままずっと待たされ、8月末に突然の発表、それで9月1日に入学しました。それから、卒業までの3年間(正確には2年と7ヶ月です)、大部分を中寮で過ごしました(当時は、南寮、中寮、北寮、明寮と4つの寮がありました)。

●アメリカ占領下の反骨精神

 今日は、駒場祭ですが、私たちの頃は記念祭といいました。2月1日から2日間の祭りでした。一高の自治会は、戦前からの伝統をもつ、歴史としては年季のいった自治会でしたが、運動としては保守派で、全国の学生ストライキのときも、提案してもいつも否決されるという調子でした。ただ、その一高でも、反権力というか抵抗精神は結構強くて、こういう学園祭のときなどは、それがたいへんセンスのある形で現れたものです。

 入学した翌年の2月に、戦後最初の記念祭がありました。当時の記念祭では、いちばんの行事は、寮の部屋部屋でのデコレーションでした。いま(1995年)は寮は、廊下をはさんでS(南)室とN(北)室に分けて別々に使っているようですが、当時は、廊下をはさんだ2つの部屋を一つの集団が使う、北が寝床で南が勉強部屋という使い方でした。その勉強部屋のほうの窓に、机を台にしてかなり広い空間をつくり、そこに思い思いの飾りものをつくって、廊下を通るお客さんに見せる。ここが、各部屋の学生たちの腕のふるいどころで、みな智恵と技術をきそいあったものです。

 戦後最初の記念祭は1947年、まさに米軍の占領のまっさいちゅうで、しかも祭がはじまった2月1日は、2・1ストという労働組合の全国的なゼネストが計画され、占領軍につぶされたまさにその日でした。それで、寮を歩いて、各部屋のデコレーションを見てまわりますと、占領軍を風刺したなかなか強烈な飾りものがあちこちにあるのです。いまでもおぼえていますが、たとえば、シューベルトに「ウィンター・ライゼ」、つまり「冬の旅」という歌曲がありますね。その「冬の旅」という題の飾りもので、見ると、寒々とした田舎の雪景色です。そのなかを斜めに一本の線路が通っていて、列車が走っているのですが、どの車両も日本人のお客がぎゅうぎゅう詰めで、窓からはみ出ています。ところが、いちばん前の一両は占領軍専用列車で、将校が一人だけ乗ってのんびりと旅をしている。「冬の旅」という気のきいた題で、そういう画面です。

 また「じんけんじゅうりん」というデコレーションにも感心しました。大きな邸宅があって、その門前に大きな犬小屋があり、ブルドックがいる。表札にはアメリカの軍人の名があります。その隣に、犬小屋より小さなバラックがあって、そこで日本人がブルドックより小さな顔をして住んでいる。これを「人と犬が隣り住む」と書いて「人犬隣住(じんけんじゅうりん)」としたんですね(笑い)。

 占領軍を風刺するそういうデコレーションが、別に左派でもない一般の学生の部屋に次々と出るわけですね。学校当局はだいぶ心配して、占領軍も見にきて問題が起きるかもしれないからと、翌年の記念祭のときには、一般公開の前の日に、当局側が事前の点検をやろうということになりました。

 私は、先生方の点検ぶりを点検しようと、ずっとついて歩いたのですが、おもしろい光景にぶつかりました。「桃太郎」のデコレーションがあったのです。桃太郎は桃太郎でも、顔は占領軍総司令官マッカーサーの顔です。その桃太郎が「世界一」という旗をもっていて、普通なら桃の絵が描いてあるところに、松かさの絵が描いてある。松かさイコール「マッカーサー」です(笑い)。それで世界征服に出かけようという図柄で、横にキジとサルとイヌがいる。キジは飢えた士(さむらい)で「飢士(きじ)」。「腹が減っても悪いことの仲間にはならない」というセリフが書いてあります。サルは「去る」で、逃げてゆきます。犬だけがお供になるのですが、看板は「走狗(いぬ)」で、「キビ団子さえもらえば、なんでもやります」というわけですね。

 このデコレーションを前にして、学校当局がうなったんですね。アメリカの総司令官そのものの批判ですから。このまま許可していいものかどうか。そうしたら、フランス語の先生で、私のクラスの担任でしたが、「いや、松かさというのは英語でいうとパイン・コーンだから、見てもわかりゃしないですよ」(笑い)。その一言で、そりゃそうだということになり、無事パスして堂々公開になりました。

 学生運動としては、わりあいに静かな学校でしたが、若い時代の反骨精神というか、そういうものが、お祭りのなかでもあふれている、駒場での生活でした。

●いまも残る「同窓会館」で結婚式

 私は、46年の9月にここにはいって、49年の3月に卒業したわけですが、それから4年たって、ここで結婚式をやりました。53年3月、旧制東大を卒業するときに(これも旧制最後の卒業生です)、結婚することになりまして、お金はありませんし、一高の同窓会館なら会場費も安いだろうということを頼りに、ここで式をやることにしたのです。今日(1995年11月25日)も寄ってきたら、会館はちゃんと健在で、お祭りの“喫茶店”をやっていました。私たちは、一階のピアノのある部屋で式らしきものをやって、二階の、今日“喫茶店”になっていた部屋で披露宴的なことをやったのです。

 だいたい、私の仲間で結婚するというものは、まだあまりいませんでしたし、実行委員会をつくって人に頼むといったやり方も知らないわけですから、会場の契約をはじめ、準備は全部自分でやりました。当日も、朝からきて、机を並べたり、その机に模造紙をはったり、式場の用意をしました。管理人のおじさんが喜んで応援してくれたのですが、彼も、その私が結婚する当人だとは、夢にも思わなかったのですね。いよいよはじまってみると、「なんだご当人だったんですか」といって、飛び入りでお祝いのスピーチをしてくれたりしました。

 このあとも、あの会館で結婚式をやったという方は、あまり多くはないようです。とくに最近は、あの同窓会館はだいぶ古びて結婚式向きではなくなっていますから、戦後最初の入学で旧制最後の卒業ということにくわえて、これも希少価値の記録の一つになっていると、うれしい気持ちでここにきたところです。

2、学問のおもしろさをつかむ〜駒場での寮生活のなかで〜

 駒場の時代に、私はここでいろいろなことを得ました。日本共産党にはいったのも、駒場での生活のなかででした。とくに、ここでつかんだと思うのは、学問とは何か、ということです。学問のおもしろさを知ったことも、駒場でえた収穫でした。

 学問や勉強のことをいうと、寮からせっせと教室のほうに通ったと思われるかもしれませんが、あのころの一高生の勉強の仕方は──いまでもそうかもしれませんが──、だいたい寮でやるものでした。教室のほうは、まあ、誰かが代表しておけばよい、ということです。それで、「代返」という“制度”──制度ではありませんが(笑い)、出席している人に頼んでおけば、出欠をとるときに代わって返事をしてくれる。「なんとかさん」と呼ばれると「はい」、また「なんとかさん」と呼ばれると、ちょっと声色を変えて「はい」、それですみました。時には、出席者が一人しかいないということもあったりする(笑い)。その代わり、「代返」を引き受けて出席したときには、さされたとき、何人分も答えをしなければならない、という大変さがあるのですが(笑い)。それは、教えるほうも教わるほうも、ある程度は納得ずくでやっておりましたから(笑い)、本気の学問は寮でやる、ということになっていたわけです。

 当時の高校の寮生活では、哲学というのは、いわば“必須科目”でした。私も、高校に入る前から、哲学をいろいろかじってみたのですが、読む本がどれもなかなかわかりにくいのです。思い出してみると、高校生が読む本というと、まず西田幾太郎という哲学者の『善の研究』、それから阿部次郎の『三太郎の日記』、倉田百三の戯曲『出家とその弟子』などが、ベスト・スリーというか、戦争中の時代から、みんなが読む本だとされて、ひきつがれていたものです。こういう本とか、三木清の『哲学入門』とか、ドイツのリッケルトの『認識の対象』とか、そんなものを読んだのですが、どうもわからない。なぜ無理にこんないりくんだ考えをするのかを、考えてしまう。また哲学の本を読んでいろいろ悩むのが当たり前とされていたのですが、どうもその悩みにも同感しない。「これは自分は哲学をやる資格はないのかな」と、そのことに悩んだりしたものでした。

●エンゲルスの生命論にどきっとする

 そういうなかで、マルクスやエンゲルスの本を読み出したのです。まず読んだのは、エンゲルスの『フォイエルバッハ論』でした。読んでみると、わかるのです。16歳ぐらいの若い人間が読むのですから、どの程度わかったのか、いまにして思うと何ともいえませんが、ともかく素直にわかるのです。無理に話をむずかしくして、まっすぐなものを螺旋形(らせんけい)にするような試論ではないわけですから(笑い)、非常にわかりよい。「これなら私にも哲学する権利がある」と自信をもったりして(笑い)、唯物論の本を読んでゆきました。

エンゲルス
 今年(1995年)は、そのエンゲルスが死んで100年にあたるということで、私もエンゲルスについて話したり書いたりしていますが、彼の本──『フォイエルバッハ論』とか『反デューリング論』などを読んでゆきますと、わかりやすいと同時に、どきっ、とするようなことがずいぶんあるのです。

 若い時代ですから、生命とは何かとか、人間の意識、精神とは何かとか、よく議論します。ところが、エンゲルスを読んでゆくと、生命論があって、「生命とは蛋白質の存在様式である」と書いてある。いまの翻訳では、「蛋白質の存在の仕方である」と、ちょっとニュアンスの違う訳をしていますが、そのころ私たちの読んでいたのは戦前の訳ですから、「蛋白質の存在様式」でした。あ、生命とは蛋白質かと、どきっとさせられました。人間の意識、精神の問題でも、それは「ある物質的な肉体的な器官、つまり脳髄の産物である」とずばっと書いてあります。

 これは、エンゲルスが百何十年前にのべた言葉ですが、いまになってみますと、これが科学の最前線で生きています。生命についていえば、最前線の生物学者が、あらゆる生命活動が、核酸──遺伝子のにない手DNAです──と蛋白質の相互作用を中心にして営まれていることを、きわめつつあります。エンゲルスが生きていたころには知られていなかった、物事の奥深くにたちいったリアリズムで、生命活動の物質的な基盤が解明されてきた。

 それから、人間の精神活動を研究している脳性理学の研究者は、私たちの頭のなか、脳のなかにある神経細胞の網の目が、どういう形で人間の考え、意識、記憶などを支え、になっているかの研究をすすめています。この研究がどこまですすんでいるかは、昨年、NHKテレビでも、大きな特集が組まれました。

 ですから、私たちが、エンゲルスなどの本にふれてどきっとしたようなことが、いま、科学の最前線で、研究のいちばんの原理とも指針ともなって生きている、そんなこともいま痛感しています。

●理論物理学の話にレーニンが飛び出す

 当時は、理論物理学がなかなか盛んな時代で、ちょうど素粒子論がはじまったところでした。私も物理学を志したことがあって、東大も一応は物理学科の卒業ということになっているのですが、そのころの日本の理論物理学のすすみ方は、一つのすごさをもっていました。

 原子物理学というのは、アメリカの原爆の開発などを見ても、大がかりな実験装置をもってお金のかかるものというのが、世界の常識とされていたなかで、日本では、湯川秀樹さんとか、坂田昌一さんとか、素粒子論では世界の最先端をゆく物理学者が次つぎと出ました。大規模な実験装置などつくりようもなかった敗戦後の日本で、なぜそういう物理学者が次つぎ生まれたのか。その答えとしては、多くの物理学者から、日本には、すばらしい方法論があるからだ、ということをよく聞いたものです。その方法論とは、唯物論であり、弁証法でした。

 私たちは学生のころ、駒場にいろいろな学者をよんで話を聞いたものですが、坂田昌一さん──当時は名古屋大学にいたまだ若い学者でした──にもきてもらって、物理学やその方法の話を聞きました。あの方が戦後書いているものを追って読んでゆきますと、シュレディンガー、ハイゼンベルク、ボーア、プランクなど専門の物理学者と同列に、レーニンとかエンゲルス、マルクスといった名前がどんどん出てきます。こういう哲学の勉強でつかんだ方法論をもって自然にぶつかり、十分な実験装置もない日本で、第一線の開拓をしてきた様子が、そういう形で論文にもよく現れています。

 坂田さんが強調したことに、こういう話があります。

 ──20世紀のはじめのころ、物理学がたいへんな危機におちこんだ。予想外の発見が次つぎとおこって、物理学者がそれまで信じていた基本がどんどん崩れてゆく。ラジウムの発見で放射能の存在が明らかになっただけで、エネルギーの保存則など、19世紀に確立した原理が崩壊してしまう。そういうなかで、悩み悩んで、一流の物理学者が二人も自殺するという悲劇も起こる。本当にたいへんな危機と模索の時代だった。

 坂田さんは、“ところが、その時代に、物理学の危機の原因はどこにあるか、この危機の打開のためにはどういう方向にすすむべきか、このことを明確にしめした人がただ一人いた、それがレーニンだった”、というのです。ただ、残念ながら、その時代の物理学者は誰もレーニンを知りませんでした。これは、坂田さんが、ここ(駒場)での講演でも話しましたし、文章でも書いていることです。

 私たち若い学生としては、理論の細部まではわからなかったのですが、日本の理論物理学者たちが、そういう方法をつかんで、第一線での開拓者の役割をはたしている、その様子が手に取るように展開されてゆくのを、わくわくして見守っていたものでした。

 こういうことにもぶつかりながら、自然をどう見るのか、人間とその世界をどう見るのかについて、駒場の3年間のなかでつかんだものは、非常にえがたいものがあった、と思います。

●自分の世界観をはかる3つの質問

 いまの学生がどうかは知りませんが、当時の高校生にとっては、自分が唯物論の側にたつのか、それとも観念論の側にたつのかは、選挙のときにどの政党を選ぶかよりも、よほど大事でした。“世界観の選択”のほうが、“政党の選択”よりも重大問題だというわけです(笑い)。そして、世界観を選ぶと、政党の選択もおのずから決まってくる、そういった調子でした。

 いま、どれだけのみなさんが、自分の世界観はこうだと、詰めて考えているかは、わかりません。それでも、人間はみな、自分の考えをつきつめて調べてみると、唯物論か観念論か、たいていはそちらかの側に属しているものなのです。「世界観支持なし」層という人は、あまりいないのです(笑い)。

 私は、この問題で、3つの質問をよくするのですが、これは、自分が唯物論者なのか観念論者なのかを見分けるモノサシとして役立つ質問です。

 第一問は、あなたは、他人の存在を信じますか、という質問です。いまも、あなた方にとっては他人である私が、みなさんにお話をしています。みなさんの席には隣の方がいるし、ふだんも多くの人間のなかで暮らしています。そういう人びとが、実際に存在していると思うかどうか、ということです。自分のまわりにいて、つきあっている人間を、自分の意識のなかだけにいる実体のない存在と見るか、それともちゃんと実体のある存在と見るか、これが第一問です。

 第二問は、あなたは、人間が誕生する前にも、地球が存在していたと思うか、という質問です。いまの科学によると、地球は約46億年前に生まれたことになり、銀河系や宇宙は百数十億年というもっと長い歴史をもっています。人類は、その地球の上で、500万年ほど前に誕生しました。その人間が誕生して、地球などの存在を意識するようになったときはじめて、地球が存在するようになったと思うか、それとも人間のように意識をもった生命体が生まれる前から、地球や宇宙が独自の歴史をもって存在していたと思うか、という質問です。

 第三問は、みなさんがものを考えるときに、脳の助けを借りて考えると思うか、脳という物質の助けを借りないでも考えられると思うか、という質問です。

 この3つの質問で、その人の世界観がだいたいわかります。

 第一問で、他人を、自分の意識から独立した、独自の存在だと思う人は、唯物論者です。他人はたくさんいるけれども、これは自分の頭のなかにいるだけで、それ以外の実体はないのだと考えながらつきあっている、という人は、観念論者です。

 また、人間が誕生する前にも地球があった、あったからこそ、その上で人間が生まれることができたのじゃないか、こう考える人は唯物論者です。まず「人間ありき」で、人間が地球の存在を意識してはじめて地球がある、と考えている人は、観念論者です。

 最後に、ものを考えるのに、脳の助けがないと困ります、という人は唯物論者、脳のような物質の助けなどいりません、そんなものがなくても、ちゃんとものを考えますという人は、観念論者です。

 このモノサシで自分をはかったら、私はおそらく、ここにおられる方の90%、いや少なくとも95、6%の方は、3つの質問のどれについても、唯物論という答えをだされたと思います。

 ここに、世界の見方のいちばん大事な点があります。

 唯物論というと、物質至上主義のことだと誤解する人がいます。石坂洋次郎の『若い人』という小説、戦前のものですが、わざわざ「タダモノ論」と読んで議論する人が出てきたりしますが、唯物論か観念論かは、そんなところに分かれ目があるのではなく、世界をきちんと見るかどうかが問題の基本です。

 私たちが学生生活をしていたころは、自然科学も、どの分野でもいまほどすすんではいませんでした。それから今日まで50年近いあいだの自然科学の発展には、目をみはるようなものがありますが、どの分野を見ても、その根底には、自然にたいする唯物論的な見方があることがわかります。

 私は、そういう点でも、ここで、学問とは何か、学問のおもしろさとは何かについてつかんだことは、やはり今日につながっていると思います。

●社会は変わるし変えられる

 世界を見るときに、もう一つ、社会をどう見るか、という問題があります。私は、社会科学研究会(当時)に属していましたから、社会の見方の問題はうんと勉強しました。 

マルクス
 マルクス、エンゲルスが明らかにした科学的な社会の見方を、史的唯物論あるいは唯物史観といいますが、マルクスやエンゲルスは、この問題で、それまでの見方のどこを大きく変えたのかを考えてみますと、その大事な柱の一つが、いまの社会を、動かすわけにゆかない不動のしくみと見ないで、人類が歴史的に経験してきたいろいろな社会の一つとして見たこと、社会は変わるものだし、これからの人間の努力で変えられるものだということを、科学的に明らかにした点にあったと思います。

 たとえば経済学の世界でも、マルクス以前に、アダム・スミスとかリカードゥとか、イギリスの有名な学者たちがいました。同じように、いまの社会のしくみを研究するのですが、この人たちとマルクスの違いはどこにあったかというと、スミスもリカードゥも、自分たちが生きているこの社会──つまり資本主義社会が、社会の自然なあり方であって、これは変わらないものだという見方にたっていました。歴史を見れば、人間社会はこれまでいろいろな形態をへてきているが、それはここにくるまでの発展の過程であって、不完全な状態だった、それが完全にできあがってこういうしくみにまできたわけで、これが人間社会の自然のあり方だと見ていたのです。

 しかし、マルクス、エンゲルスの見方は違っていました。社会は、これまでも変わってきたし、これからも変わってゆく、いまの社会は、人間社会のそういう歴史のなかの、一つの段階にすぎない、こういうことを見きわめ、その見きわめを根底にすえて、いまの社会──資本主義社会を研究したのです。

 このことにも関連がある話ですが、この社会を特徴づける「資本主義」という言葉自体が、マルクス、エンゲルスの以前にはなかったのです。「社会主義」とか「共産主義」の言葉は、理想とする未来社会をあらわす言葉として、運動家たちによって使われていましたが、「資本主義」の言葉はありませんでした。この言葉は、『資本論』の草稿を書いているなかでマルクスが編みだしたもので、マルクスが使いだしたら、それがずっと広まって、いまでは世界中の人が、当たり前に使っています。

 マルクスが、いまの社会を「資本主義」と名づけたこと自体が、一つの考え方をあらわしていました。マルクス以前の経済学者たちは、資本主義社会を社会の自然のあり方だと思っていたわけですから、特別の名前を必要としなかったのです。「社会一般」で間に合っていたのでした。ところが、マルクスやエンゲルスは、この社会を、人間社会が歴史のなかでいろいろと移り変わってきたなかの一つの段階だと見きわめていますから、その社会の独自のしくみを明らかにするとともに、そのしくみにふさわしい名前も考え出したのです。きょうは、経済学の話をするわけではありませんから、資本主義論の中身まではいいませんが、「資本主義」という言葉のなかに、私たちが生きているいまの社会が、人類が誕生以来の長い歴史のなかで経験してきたいくつかの歴史社会のなかの一つだという見方、認識が、表現されていたのです。

 今の社会についてこういう見方をすれば、そこから、その社会がやがては次の、より高度の社会に変わってゆくに違いない、という見通しもでてきます。資本主義を超えた未来社会への展望が、人間のたんなる願望ではなく、法則的な発展だという裏付けをもってくるわけです。社会とは人間がつくっているものですから、社会が変わるということは、人間の力で変えられる、ということです。

 ここに、社会を見る唯物論的な見方の、たいへん大事な内容がありました。

●戦前の歴史教科書は社会のしくみ抜きだった

 こうして、資本主義社会の特徴とその位置づけがわかってみると、資本主義以前の社会、これまでの歴史的な社会についても、そのしくみや移り変わりが、たいへんよくわかってくるようになります。マルクスは、人類社会のこれまでの歴史を、その社会のしくみによって、原始共産制の社会、奴隷制の社会、封建制の社会、資本主義の社会と、大づかみに区分しました。

 だいたい社会がどう変わってきたかということは、いまみなさん方が中学や高校で教わってきた歴史の教科書にも、かなりよく書いてあった、と思います。教科書を書いた人たちの見方がはいってきますから、それぞれの違いや特徴はもちろんあったでしょうが。

 しかし、私たちの世代が、戦争中に中学で教えられた歴史は、まったく違っていました。それは時代区分一つ見てもわかります。社会のしくみや構造がそうだったかという分け方はしないのです。現代は明治・大正・昭和と天皇の代で分けていました。その前はまず江戸時代、さらにさかのぼってゆくと、安土・桃山時代、室町時代、鎌倉時代、平安時代、奈良時代、大和時代となっていました。

 こういう時代の名前をなんでつけたかというと、結局、首都がどこにあったか、なんです。徳川幕府の時は、幕府は江戸におかれていた、だから江戸時代です。豊臣秀吉は、最後のころ、京都の桃山に伏見城をたてて、ここを本拠にしたから桃山時代。織田信長は尾張(愛知県)の出身だが、天下に君臨したときには滋賀県の安土城にいたから、安土時代。足利幕府は京都の室町におかれたから室町時代。源頼朝は鎌倉に武家政権の首都をおいたから鎌倉時代。それ以前は、京都が平安京と呼ばれ、ここに都があったから平安時代。それ以前、奈良が都になったのが奈良時代で、都が大和地方(奈良県)を転々としたのが大和時代。こういった調子です。こうして、首都がどこにあったかで歴史の区分をしただけで、何の時代といっても、社会のしくみの特徴は何もわからないのです。こういう歴史が、私たちが中学で教えられたというだけでなく、学問の世界でも幅をきかせていました。

 だいたい、歴史をこんな時代区分ですますことを、外国でやったらたいへんですよ。イギリスでは、ロンドンは、ローマ帝国の時代、ロンドンがまだロンディニウムなどと呼ばれていた時代から、イギリスの中心でした。だから、首都で時代を分けたら、それから今日までずっと「ロンドン時代」です(笑い)。フランスでも、ゲルマン民族がはいりこみローマ帝国がまだここを抑えていたころから、パリがいちばんの中心です。だから、ここも、歴史は「パリ時代」一つですむ(笑い)。歴史の中身はこれでは何もわかりません。

 しかし、現代の社会、資本主義社会の特徴というものがよくわかってみると、前の時代の特徴──社会のしくみとして、どこが違っていたのかが、浮き彫りになります。こうして、現代を知ることによって、本当の意味で、過去の歴史もわかるようになったのです。「社会が変わる」という見方の威力ですね。

●マルクスと日本の歴史

 こういう目で日本の歴史を見ると、なかなかおもしろい問題がたくさんあります。

 たとえば、マルクスは、『資本論』のなかで、ヨーロッパの中世を見ようと思ったら、歴史の本を読むより、現代の日本の社会を見た方がよい、ということを書いています。日本では、農地と土地の関係でも、社会のしくみでも、中世のヨーロッパそのままだ、というのです。

 私は、この箇所を最初に読んだとき、たいへん不思議に思いました。『資本論』という本は、1868年に第一巻が刊行されています。これはどういう年かというと、慶応3年、幕末の動乱が大詰めにきて、いわゆる「大政奉還」がおこなわれた年ですが、それがすぐ内戦に切り替わって、翌年、鳥羽・伏見の戦いにはじまる戊辰戦争へと移ってゆく、そういう年です。マルクスは、『資本論』第一巻の出版までに、最後の原稿だけでも2,3年かかって書いていますから、日本史でいえば、幕末の動乱の時期に、『資本論』をロンドンで執筆していたわけです。

 そのマルクスが、江戸時代の日本について、土地所有の関係も社会のしくみも、ヨーロッパの中世をそのままにあらわした同じ封建制だといっている、いったいマルクスは、こういう断定ができるだけの日本情報を、どこから仕入れたのか。外国の状況を、テレビで目(ま)のあたりにできるという時代ではもちろんありません。電信での通信もかぎられていて、アジア各国の状況がロンドンにとどくには船便だと何ヶ月もかかる、という時代ですから。

 ところが、マルクスの日本情報はこれだけでなく、『資本論』のあちこちでなかなか詳しいのです。これは、第三部ですが、産業廃棄物のリサイクル問題をとりあげたところで、日本では人間の排泄物を農業にうまく利用しているなどと書いています。人糞肥料のことですが、こんな調子で日本通ぶりを大いに発揮しています。

 マルクスはこれらの情報をどこから得たのかと考えて、彼の手紙などを手がかりにしながら、だいたいつきとめました。幕末に日本に派遣された最初のイギリス公使オールコック、この人はたいへんな文章家で、帰国してから『大君の都』という大きな本を書いているのですが、これがマルクスの情報源だったというのが、私の推理の結論です。これを証明する材料が、マルクスのノートなどから出てこないかと思っているところですが。

 実際、オールコックの『大君の都』には、日本を歩いて、その状況が中世のヨーロッパそのままなのに驚いたり感激したりしたことが、くりかえし書かれています。

●歴史学の宝物のような日本史

 日本とヨーロッパを比較したマルクスの言葉から、こういうことも考えました。

 ヨーロッパの封建制というのは、みなさんも歴史で教わったでしょうが、奴隷制を基礎として発展したローマ帝国が、その衰退の時期に、原始的な氏族制度のしくみを残したゲルマンの諸民族が東から押し寄せてくるのにぶつかり、この二つの社会の合流点で、社会のしくみとしては、ゲルマン的な制度が大きな骨組みになって生まれたものです。

 しかし、日本の場合には、こういう経験はまったくへていません。その日本に、ヨーロッパ中世に詳しいイギリス人・オールコックが感激するほど、ヨーロッパと同じ型の封建社会が生まれていたとしたら、それは何を意味するのだろうか、という問題です。

 歴史をさかのぼってみると、封建社会だけでなく、その前には、奴隷制社会の時代もやっぱり日本にあります。日本的な特徴をおびていますが。さらに、原始共産制社会も存在していました。

 縄文時代というのは、原始共産制社会のもっとも盛んな時代でしょう。最近、青森で、縄文時代の大集落の遺跡(三内丸山遺跡)が発掘されて、話題をよびました。とくに、いままで縄文時代の住居というと、竪穴式の小さい住居の跡が多かったのですが、青森では、たくさんの人が一緒に住めるような大型の住居跡がみつかりました。これも不思議なことではなく、原始共産制の時代というのは、社会は氏族が単位で、個々の家族に分かれるようになったのは、あとの時期だということが明らかになっています。それが、日本でも実証されたものと、見ることができるでしょう。

 こうふりかえると、日本の歴史は、たいへんおもしろいのです。日本というのは、種子島に鉄砲が渡来したとか、ラテンアメリカの特産であるトマトやカボチャが、コロンブスのアメリカ発見以後、あまり長い時間をおかないで、日本にもやってきたとか、そういう交流はたしかに地球的規模でありました。しかし、社会全体が合流したり混在したりするような大規模な交流は、日本の歴史には、本当に少ないのです。

 その日本で、この列島のうえで生まれた日本社会が、最初は、ヨーロッパと同じように原始共産制の社会から出発した。それから、日本的特徴をもった奴隷制社会に移行した。それから封建制社会になって、その封建制がヨーロッパの中世とまったく同じだったということになると、「歴史の流れにはやはり法則があるんだな」ということを、具体的に実感せざるをえないのです。

 一つの列島のうえで、社会の交代が順繰りにおこなわれた、それが、マルクスやエンゲルスが主にヨーロッパをもとにして研究した社会の交代の歴史と基本的に同じで、こういう形で原始社会から資本主義まで4つの社会形態を全部経験してきたという国は、あまり世界に例がありません。

 そのかわり、奴隷制社会から封建制社会に変わってゆく過程などを見ると、ものすごく時間がかかっています。革命という言葉を使えば、「封建革命」が何回もあるのです。源頼朝が鎌倉幕府をおこしたのが第1回目の革命です。しかし、その結果は、封建制の確立という点では、まだ中途半端なものでした。ですから、南北朝内乱と足利幕府の成立という2回目の革命がこれにつづきます。さらに、戦国時代から織田・豊臣の両政権をへて徳川幕府の確立にいたる過程が3回目の革命で、これで日本の封建社会が仕上がったといえます。

 ヨーロッパから社会のしくみを輸入したわけでも、教わったわけでもないのに、その到達点は、ヨーロッパ人がその共通性にびっくりするようなところまできました。こういう意味で、日本史というものは、世界のなかでも、歴史学の宝物みたいになっているところがあります。

 その日本に生きている私たちとして、社会が変わるということ、そこにおのずからなる法則があるということが、大事な点だと思いますが、これも、私が駒場で勉強しはじめたころからの思いにつながるものです。

●社会の発展は人間の進歩の歴史

 「社会が変わる」ということで、もう一つ話しておきたいのは、社会の発展とは、人間の進歩の歴史だということです。

 史的唯物論というのは、人間をぬきにして、経済とかモノの生産の関係だけを重くみる学問ではありません。社会が移り変わってゆくなかで、人間がいかに進化し進歩してきたかを、ずっと追跡し、それが未来社会での人類の発展の大きな展望と結びついているのも、この歴史の見方の重要な特徴です。

 このことは、気づかれないままに、見落とされることがよくあるのですが、私たちの社会の見方、歴史の見方として、たいへん大事な点なので、これから勉強するさい、しっかり頭においてほしい、と思います。

3、日本のいまの社会と政治をどう見るか〜「社会は変えられない」ではすまない現状がある〜

 こういう話をしますと、「社会が変わってきた」というのは、学校でも教えていることで、いまでは常識だといわれるかもしれません。しかし、大事なことは、「社会は変わる」し「変えられる」ということを、歴史の世界だけの話にとどめないで、私たちが生きて生活している現在の日本社会そのものを、この立場で、またその目でしっかりとらえることです。

●日本の社会の2つの異常さ

 世界には、多くの資本主義国がありますが、みな同じ顔をしているわけではなく、それぞれ独自の特徴をもっています。

 では、日本の社会にはどんな特徴があるか、というと、どうしても“2つの異常”ともいうべき特徴をあげなければなりません。

住宅密集地のなかの横田基地
 一つは、いま沖縄で大問題になっている、アメリカとの関係です。戦後50年たって、いまだに100を超えるアメリカの基地があって、首都の東京のなかにさえ、横田空軍基地のような巨大な基地がある、これは、世界の他の資本主義国にほとんど例のない異常な特徴です。

 もう一つは、「ルールなき資本主義」といわれる日本的特徴です。だいたい、ヨーロッパ諸国にしても、アメリカにしても、資本主義の道をすすむなかで、国民のいろいろなたたかいをへて、資本主義ではあるが、国民の暮らしや権利を守るある程度のルールが各分野でそれなりにつくられてきています。ところが、日本は、それが欠けているか、非常に弱いのが特徴です。

 日本資本主義のこの2つの特徴は、資本主義の世界でも、異常さがきわだっているもので、それが、国民のうえにさまざまな問題をひきおこしています。「社会を変える」という場合、資本主義の枠そのものを変えないでも、まずこういう異常な点から正してゆくのが、国民にとって大切なことになりますが、「社会を変えたら大変だ」、「変えるべきではない」──こういう立場をとる人たちが、政治の舞台では圧倒的に多い、実はここに、日本のいまの社会と政治の大問題があるのです。

●日米安保体制──アメリカとの関係の異常さ

 日本社会の異常さという問題を、もう少しつっこんで考えてみましょう。現状を変えるべきかどうかということは、それを外国の実情とくらべてみると、よくわかるものです。

 まずアメリカとの関係ですが、沖縄の問題で暴露された、安保条約のもとでの日米関係の異常さは、世界でも本当に例のないものです。

 アメリカは、世界の一連の同盟国に基地をおいています。しかし、航空母艦を中心にした攻撃部隊(「空母戦闘群」とよばれています)に、「母港」を提供しているところは、日本の横須賀以外にはどこにもありません。航空母艦というのは、飛行機の夜間発着訓練を不断にやることを建前にしていますから、これに「母港」を貸したら、その国が、「機動戦闘群」の第一線の出撃基地になると同時に、航空母艦が港に帰っている期間中、例の夜間発着訓練の大騒音で住民は悩まされることになります。だから、同盟国でも、そんな「母港」は誰も貸さない。だから、アメリカは、いま現役の航空母艦を12隻もっていますが、本国以外に「母港」をもっているのは、横須賀のインディペンデンスだけで、あとの11隻は、大西洋にいようが、地中海にいようが、作戦任務が終わったら、みな本国に引き揚げてゆきます。

 海兵隊も、いざというとき、最初に飛び出す、もっとも物騒な出撃部隊ですが、これも、外国に基地をもっているのは、沖縄と岩国(山口県)だけです。これが、犯罪率もいちばん多い部隊で、沖縄で暴行事件を起こしたのも、この海兵隊でした。

 アメリカの同盟国が世界にいくつあっても、アメリカが武力を行使しようというとき、第一線のなぐりこみ部隊になるような機動部隊と海兵隊に、「母港」や基地を提供する国はない。ところが、日本は、そのなぐりこみ部隊を、2つながらおいているのです。このこと一つ見ても、アメリカとの関係の異常さ、その従属ぶりは明らかです。

 私が国会にでた26年前、1970年ごろには、民社党のような自民党よりの政党でも、安保条約をいまのままで結構とはいいませんでした。安保のいまの体制は変えなければいけない、ということは、野党であれば、どの政党も主張していました。

 いまでは、そこがまったく変わっています。民社党や公明はもちろん、長く安保条約廃棄をとなえていた社会党も「日米安保条約堅持」に変わってしまいました。ついこの夏の参議院選挙のときも、テレビの討論会などで、私たちが安保のことをいうと、「まだそんなことを言っている。日本共産党はなんでそんなに頭が堅いのか」といわんばかりの態度を、わが党以外の全政党がとったでしょう。「現実路線」などの看板でみな衣替えをし、「日米関係は変わらないで結構、いや変えたらこまる」ということで、日本共産党以外のすべての政党の共同戦線ができたのです。

 ところが、そこへ沖縄の事件が起こり、沖縄県民のたたかいがはじまりました。こういうときには、世論も激変します。日本経済新聞の8月の調査では、安保解消論は29%、維持論が60%で、安保賛成が多数派でした。それが、10月の調査では、解消論40%、維持論44%とほぼ横並びになりました。そして、産経新聞の11月の調査では、解消論(米軍は撤退すべきだ)44%、維持論(撤退すべきでない)31%と逆転しました。いまや安保解消が多数派です。沖縄の全島あげてのたたかいという国民的な経験をすると、3ヶ月でも、世論はこれだけ変わるのです。

 こんな異常な事態におかれていながら、「変わらないもの」と思い込み、「変えてはならない」という立場をとってきた政党が、どんなに間違っていたか──そのことが、事実で明らかになったではありませんか。

●日本流の経営方式の異常さ──就職の面接試験にみる

 経済の問題でも、日本資本主義の異常さが、いまほど世界でさらけだされてきていることはありません。日本では、これが当たり前とされていることで、実は世界では通用しないということが、たくさんあるのです。

 みなさんはまだ教養学部ですから、これから本郷(専門学部)にゆき、卒業すれば、就職の道を選ばれる方も多いと思います。そこでぶつかる問題から、はなしてみましょう。

 数年前に、テレビでこういう特集をしていました。「青田買い」といって、企業が早い時期に競争で学生をつかもうとした時期がありました。その「青田買い」の手をアメリカにもひろげて、アメリカに留学している学生をつかもうと、企業が続々アメリカに乗り出したのですね。そこで、留学生の面接調査をしようとして、企業側が驚いたのは、アメリカでは就職の面接で“聞いてはならないこと”が実にたくさんある、ということです。

 企業が人を採用するかしないかを決めるとき、相手の能力がその仕事に向いているかどうかを判断すればよいわけで、それ以外の条件を質問することは就職差別として、法的に禁止されている、というのです。私も驚いたのですが、年齢も聞いてはいけない。顔をみればだいたいわかる、ということでしょうか(笑い)。結婚しているかいないかとか、子どもがいるとかいないとか、全部だめです。日本では、両親がそろっているかとか親の職業だとかまで質問するでしょう。こんなことは、もちろん許されません。だから、アメリカに乗り込んだ企業の担当者たちが困って、関係の法律を取り寄せてみたら、聞いてはいけない条項が分厚い一冊の本になるぐらいあって、学生の面接をする前に、担当者のほうが一生懸命勉強している姿が放映されていました。

 つまり、学生が就職試験をうける、企業がそういう手続きをへて人を雇い入れる、そういう問題にも、その社会の民主的な蓄積が反映している、ということです。日本の横暴なやりかたが、世界ではいかに通用しないものかということを、企業自身が経験させられているのです。

●労働現場の過酷さも国際的な批判の的

 つぎに現場の話をしますと、いまヨーロッパでは、「トヨタイズム」との闘争ということが、労働組合の色合いのいかんにかかわらず、多くの国での共通のスローガンになっています。

 戦前は「フォードイズム」というのが、問題でした。アメリカのフォードという自動車会社が、コンベアシステムによる「合理化」で生産性をものすごくあげたのですが、労働者に過酷な労働を強要するというので、これとの闘争が世界中で問題になったのです。

 チャップリンの「モダンタイムス」という映画をご覧になった方は多いでしょう。あの映画で、チャップリンが、新しいコンベヤーシステムの実験材料にされるところがありますね。コンベヤーの流れるスピードが速すぎて、チャップリンがコンベヤーを追いかけて走る話とか、仕事をしながら食事ができるようにしようということで、実験的にあてがわれた自動給食の機械がこわれて、チャップリンがひどい目に合う話とか、これはすべて「フォードイズム」への風刺でした。

 ところが、いまヨーロッパでは、フォードではなく、トヨタなのです。“日本のトヨタのようなしぼり方をされてはかなわない”、“ヨーロッパの自動車企業はみなトヨタのまねをしようとしている。それでは労働組合がつぶされ、労働者はひどい目に合う”というので、ドイツの労働組合も、スペインの労働組合も、みな「トヨタイズム」反対という方針をかかげる。世界の労働者、労働組合がこんなに問題にするほど、職場がひどい状態になっているのが、日本なのです。

 今年(1995年)の2月に、日本共産党の吉井英勝議員が、衆議院の商工委員会で、トヨタの職場の状況をとりあげました。トヨタは、以前から、流れ作業につく労働者の、1分1秒もムダにしないで、いかに最大限の仕事をやらせるか、これを極限までつめて、労働者には本当に過酷な作業をおしつけていることで有名なところですが、最近、「トヨタでは、みんな走って仕事をしている」ということが、問題になってきたのです。

 どういうことかというと、労働者が動かないでコンベヤーの前に立っていて、流れてくる仕事を次つぎこなしてゆくよりも、コンベヤーといっしょに動きながら作業した方が能率があがるということを、トヨタが考え出して、この方式を各職場にもちこんできたのです。

 ある工場のシャフトを加工している労働者の作業を調べてみましたら、一回の行程に50の操作がありますが、そのすべてを44秒でやる、それをコンベヤーとともに歩きながらやるわけで、測ると歩く距離は1回27メートルです。1日にこの行程を700回やるわけで、計算してみると、1日の操作の数は35000、歩く距離は19キロメートルになります。35000の操作というだけでも殺人的ですが、毎日20キロメートル近い歩きをやりながら、この仕事をやるのですから、その過酷さは想像を超えています。

 吉井議員が、具体的な資料もだして、この現実をどう思うか、橋本通産相に質問したのです。彼が答弁でまずいったのは、「組合は一体どうしているのだろうか」(笑い)でした。自民党の通産相があきれる(笑い)ようなことが、平気でおこなわれている。

 だから、日本では、「過労死」ということも、起きるのです。

 いま過労死という言葉は、翻訳なしで世界で通用しています。「カローシ」というだけで、ああ、日本のことかとわかってしまう。だいたい、「死ぬ」まで働くなどということは、外国では考えられませんから。労働者をこういうところまで追いつめてしまうところに、日本型の経営方式のこわさがあります。

●長時間労働と「単身赴任」

 労働時間が長いのも、日本型です。みなさんが企業にはいったら、現場であろうか、事務であろうか、どの部門でも、労働時間の長さ、残業の長さに苦しめられるはずですが、これも理由があります。

 たとえば、ドイツやフランスでは、法律で残業の上限が決まっています。ドイツでは、残業は1日2時間以内、それも年に30日以上やらせてはいけない。限度ぎりぎりまでやっても年60時間です。フランスはもう少しゆるくて、年130時間以内です。こう決められると、毎日の生産体制は、残業をあてにしないで組んで、残業の分は、突発事故などの用意にとっておくということにならざるをえません。だから、どこの企業でも、生産体制は、定時間で仕事をやることを基本にして組むことになります。ところが、日本では、労働組合さえうんといえば、いくら残業をやらせてもよいわけですから、毎日何時間かの残業をつけくわえたものが、標準の生産体制になっています。

 こういう労働者への異常な締め付けが、下請けへの締め付けとともに、自動車などの大企業に、どんな円高ものりこえる特別の国際競争力をあたえているわけで、こういうことが、異常円高のいちばんの原因になっています。

 それから、もう一つ、世界から理解されないのは、「単身赴任」です。いくら説明してもわかってもらえないそうです。会社の都合で、社員を家族と切り離して、長期間遠方に派遣してもよいなどという国は、どこにもない。誰も、家庭生活を破壊する権限など、会社にあたえているはずがない、というわけです。イタリアなどでは、大の男が、家族も連れないで一人で長期の仕事にきたりすると、周りから「異常者」ではないか、と見られたりすると聞きました。

 このように、多くのみなさんがこれからはいられる企業社会には、かなりのところで、世界には通用しない異常なことが横行しています。

 そして、国際化がすすむなかで、日本資本主義の異常さが、世界の労働組合の場で点検されるとか、経済の面でも、日本にこんな異常なやり方を認めておいたのでは国際競争の公正を害するという角度で問題になるとか、いまそういう批判が痛烈にでています。

●日本政府のルール破りにも国際的な批判

 これが、「ルールなき資本主義」という日本の実態ですが、政府の役割にもたいへんな問題があります。企業がむちゃなことをやれば、取り締まるのが政府の役目のはずです。ところが、日本では、たとえば通産相というお役所は、自分が担当している企業の利益をいかに守るかを、最大の使命としている。大蔵省(当時)という役所は、銀行をいかに守るかを、自分のなによりの役目としている。

 「護送船団方式」という言葉があります。戦争のときに、輸送船の集団を軍艦で護りながら航行するのが「護送船団」ですが、日本では、大銀行、大企業が「船団」、お役所がこれを守る「軍艦」の役割をしている、というのです。だから、ちゃんと経済のルールをつくって、企業や銀行がそのルールに従うよう監督するとか、ルールからはずれたら、それを取り締まるという役目はしない、反対に、ルール違反がおきたらそれをかくしたりかばったりに懸命になる、日本政府のこういうやり方が、いま国際的に大問題になっています。

 最近、大和銀行が、アメリカで大失態を起こして追放されました。実は、あのとき、アメリカで問題になったのは、大和銀行だけではなかったのです。銀行とぐるになった日本政府のやり方にタたいしても、きびしい告発がおこなわれました。

 問題は、大和銀行に1100億円もの損失をもたらした不正事件が起きたことだったのですが、大和銀行はそのことを8月8日に日本の大蔵省に報告しています。こういう重大な不正事件が起きたら、それはその国の金融市場に影響をおよぼすことですから、世界の金融のルールでは、ただちにアメリカ政府に報告する義務があります。ところが、日本の大蔵省は、「護送船団」の司令官ですから、これは聞かなかったことにしよう、アメリカにも報告するなと“指導”し、全部いろいろ対策を準備したうえで、9月18日に、いかにもいま報告をうけたという顔をしてアメリカに知らせました。ところが、その間に、8月8日に大和銀行が大蔵省に報告していたということが、ばれてしまったのです。ですから、「いったいなんだ、日本政府は、銀行とグルになって、ルール破りをやっているじゃないか」──大和銀行を追放したアメリカ政府の側には、あわせて、日本政府にたいするこうした痛烈な批判があるのです。

 このように、企業が、世界では当然となっているルールを無視して勝手横暴なことをやり、政府がそれをかばい、もっぱら大企業の利益をはかる、それが国民の生活にさまざまな問題を投げかけ、みなさんの将来にものしかかってくる──こうした日本資本主義の「ルールなき」実態、日本社会の特別なしくみがいま大きく問題になっているのです。

 ところが、政治の世界では、ここに問題があると主張するものは、私どもの党・日本共産党しかいません。ほかの政党はみな、「これが日本なんだ」、「このしくみを変えるわけにはゆかない」といいてすませています。ここに、いまの日本で、政治の停滞や不信をひきおこしている大きな根があります。

 「オール与党」といわれる勢力は、みな日本社会のゆがんだ枠のなかに浸りこんで、社会は「変わらない」もの、「変えてはいけない」ものにしてしまっている。こういう、「社会は変えない」という頑固派が、日本の政治も、日本そのものもダメにしているわけですね。

 日本の歴史の話からいきなり現代に飛んで恐縮ですが(笑い)、こういう今日の問題も、「社会は変わるという目で、いつもよく見てほしい、と思います。

●「そして地球は」の話

 きょうの講演会の宣伝ポスターには、「そして地球は」とありました。地球の話もしないと、公約不履行になりますから(笑い)、少しこの点もお話しします。

 エンゲルスという人は、なかなか冷静な人で、地球の運命についても、ずいぶんリアルなことを書いています。

 いまは地球も人類も登り坂にある、しかし、やがて下り坂になることもあるといって、地球の最後を描きだしているわけですね。当時は、太陽がしだいに冷却するというのが定説でしたから、エンゲルスも、地球が冷たくなり、人間が熱帯地方に移動するが、やがてそこでも生きられなくなって人類が消滅するといった見通しを書きました。そのうえで、その後の宇宙の発展まで雄大に論じたりしているのは、エンゲルスらしいところです。

 そのエンゲルスも、当時の科学の認識からいって、地球の将来はだいたい1000万年ぐらいのつもりでいました。しかし、いまでは研究がすすんで、地球の寿命もケタが違ってきています。太陽系が最後を迎えるまでには、まだ数十億年かかる、という見通しになっています。もちろん、私たちが生きているあいだは、地球が壊れることは絶対にありません(笑い)。こうして、太陽系が数十億年の歴史を、将来に向かって保障されているということは、この地球のうえでまともに生活を営んでゆけば、人間集団自身にとっても、それぐらいの規模で歴史が保障されている、ということです。

 ところが、保障されているはずのその将来を中断しかねないことが、いまの地球の上ではずいぶん起きているわけです。

 まず核戦争です。本当に核戦争が起きたら、地球上の全生命が死滅するような事態が生じることは、多くの科学者によって警告されています。自然科学的には、数十億年の将来が保障されているのに、またその間、人類の文化も、数百万、数千万の世代にわたって引き継がれ、発展してゆくはずなのに、人類自身の行為によって、それを中断してしまう危険が、今日のわれわれの世代に現にある、ということです。

 公害の問題も、深刻です。マルクス、エンゲルスの時代にも公害はありました。しかし、それは、工場地帯とその周辺の問題でした。マンチェスターの工業地帯とか、ロンドン周辺とか。日本の場合なら、京浜とか阪神の工業地帯の周辺で、公害が問題になりました。しかし、いまの公害は、そんなものではありません。

 今年(1995年)、オゾン層破壊の問題を研究した3人の学者が、ノーベル化学賞を受賞しました。地球の上空20〜30キロメートルの成層圏上部には、薄いオゾンの層が地球を包みこんでいて、紫外線が地表に直接くるのを防いでいます。ところが、そのオゾン層のあちこちに、穴があきはじめていることが、最近、発見されました。そうなると、その穴から紫外線がじかにはいってくるようになります。これがどんどん広がって地球が裸になったら、人間の生存条件はなくなってしまう、それほど危険な話です。なぜ、こんなことが起きるようになったか。大きな原因は、人間が、洗浄用、冷却剤、発泡剤などとしてフロンを広く使いだしたことにあります。

 このように、公害の問題は、もはや、工場地帯やその周辺の限られた環境を破壊するという問題ではなくなりました。その影響のひろがりいかんでは、地球の存在条件を変えてしまって、本来なら数十億年は保障されているはずの人類の将来、何百万、何千万という世代があとにつづかなければならないはずの人類の将来を、われわれの時代に断ち切ってしまう危険が、現に生まれている、いまはそこまで考えなくてはならない時代です。

 その意味では、「社会は変わりうる」ということを、そこまで突き詰めて現実に生かすことを、いまの時代に生かすことを、いまの時代に生きるわれわれとして、真剣に考える必要があります。

4、日本共産党とはどういう政党か〜私が48年前に選んだ政党〜

 最後に、せっかくの機会ですから、私が48年前に選んだ政党・日本共産党について、紹介かたがたPRをさせていただきたいと思います。

 3つの角度から紹介してみましょう。

●党名を変えない政党です

 第一は、日本共産党というのは、党の名前を変えない政党だということです。開き直っている(笑い)わけではありませんよ。

 いまの政界をみても、政党の名前を変えるという話がよくありますが、党の名前を変えたいということは、はっきりいって、その名前を名乗るのが恥ずかしいからです。つまり、自分の党に何の愛着もない、ということですね。

 このあいだ、社会党が党大会を開きました。そこで、次の総選挙を社会党の名前でやったら必ず負ける、というので、新しい党をつくることを決めたのです。しかし、つくろうという“新しい党”については、党の名前も決まっていない、どんな目標を持つかも決まっていない。ともかく、社会党という名前では、国民に顔向けできない、ということだけは大会で決まったというのです。日本と世界の政党の歴史でも、こんな奇妙な大会は前例がありません(笑い)。首相をだしている政党ですから、総選挙でもいばって「わが社会党は」といってよいところなのに、それを逆に恥ずかしがって党名の変更を決めるわけですから。

 これは、最近の一例ですが、党の名前を変えるというのは、その名前では世間に顔向けできなくなったときに、問題になることです。

 日本の政治の歴史で、そういうことが大規模に起こったときがありました。それは、1945年の敗戦のときです。そのとき、わが党をのぞくすべての政党が、名前を変えました。

 なにしろ、これらの党は、1940年に大政翼賛会という組織ができたとき、みなこぞってこれにくわわったのです。大政翼賛会といっても、若いみなさんはピンとこないでしょうが、「大政」とは天皇の政治ということ、「翼賛」とは仕え助けるということです。時は、中国との全面戦争の4年目、翌年は真珠湾攻撃の年、つまりこれを対米英戦争に拡大する年になります。そのとき、天皇のもと一丸となって戦争政治をすすめましょう、ということで、「大政翼賛会」がつくられました。政友会、民政党、社会大衆党などの政党──、当時、日本共産党は侵略戦争と専制政治に反対する旗を断固としてかかげていましたが、それ以外のすべての政党が解散して、「翼賛会」に参加しました。

 戦争は、その5年後に敗戦に終わり、それが侵略戦争として告発されたのですから、こういう政党は、もう“昔の名前で出ています”というわけにはゆかなくなったのです。みな、あわてて名前を変えました。政友会と民政党の政治家たちは、自由党、進歩党、民主党など、それぞれ好き勝手な名前をつけました。社会大衆党の人たちは、社会党と改名したのです。

 そのとき、名前といっしょに考え方も変えればよかったのですが、変えたのは名前だけで、中身は変わらなかったものですから、それから50年もたちますと、もうよいだろうと、戦争中そのままの本音をのべる政治家が、次から次へと出てくるわけです。そういうものなんです、名前を変えてすまそうというのは(笑い)。

 私たち日本共産党は、この党の名前で、73年あまり、活動してきました。戦前は、主権在民の民主主義を主張し、侵略戦争反対の平和をいうことは、それこそ命がけの仕事でしたが、そのなかでも、あらゆる迫害に抗して、民主主義と平和の旗を守ってがんばりぬきました。戦後も、旧ソ連・中国などさまざまな大国から干渉の攻撃をうけましたが、それをはねのけ、干渉を打ち破りました。ですから、私たちは、日本共産党が、この名前のもとでやってきたことに、事実と道理にもとづく誇りをもっています。この名前を変えないと世間に顔向けができないなどということは、現在もないし、将来もないということを、私ははっきり申し上げることができます。

 日本共産党は、そういう意味で、歴史に責任を負う一貫性をもった政党だということを、まずご紹介したい、と思います。

 私が戦後、間もなく17歳の誕生日というまだ若いころでしたが、この党にはいりました。それはやはり、あの暗黒の時代に、侵略戦争の本質を見抜き、戦争に反対してがんばりぬいた人たちがいたことを知った、その感動がいちばんでした。

●学問を踏まえた政党

 第二には、日本共産党は、学問を踏まえた政党だということです。

 さきほど私は、昔の高校生は、唯物論か観念論かを選ぶ方が、支持政党を選ぶよりも大事だと思っていた、という話をしましたが、こうして、唯物論の正しさ、科学的社会主義の理論的な正しさがわかったら、日本共産党にはいるという傾向も、当時はかなり広くあったものです。

 日本共産党の一高支部(当時は細胞)が最初にできたのは、社会科学研究会(当時)のなかででした。間もなく、この研究会の外にいて、入党したいといってきた学生がいました。その動機を聞くと、「観念論の誤りがわかりましたから」の一言なんです(笑い)。日本共産党がいま何をやろうとしているかなど、政策的なことはほとんど知らない。しかし、理論の正しさがわかったら、その理論の上にたっている党なら間違いないだろう、という気持ちです。

 私は、ここには、それほど見当違いなことはないと思います。もちろん、わが党には、いろいろな歴史があります。現在の路線──綱領の路線や自主独立の立場──でも、ここにゆきつくまでには、いろいろな論争もあり、混乱もあり、ジグザグもありました。しかし、日本共産党のよってたつ基盤は、社会を科学の目で見、社会進歩の法則的な発展方向を明らかにし、その推進のために奮闘するというところにありますから、その立場で、いろいろな困難をのりこえて、今日の路線に到達することができたのです。ここに、学問を踏まえた党という所以(ゆえん)があります。

 私たちは、そんな問題にとりくむときにも、自分勝手な願望や思いつきで仕事をすることはしません。どんな場合でも、私たちは、科学を踏まえて仕事をしようと思っています。

 私たちが、政党として、学問、科学を基礎としているというと、こういう誤解をする人がいます。政党と学問の関係を、共産党がまず政治的な思惑から結論をうちだす、理論の方はそれに都合がよいようにあとから組み立てる、こういう見方ですが、これはまったくの誤解であって、政治と学問の関係は、そんな見方とは正反対のものです。

 今年はエンゲルスの没後100年なので、またエンゲルスの言葉を引きますが、マルクスの娘さんと結婚したラファルグというフランスの党の幹部への手紙の中の言葉です。

 このラファルグが、マルクスの経済学についての論文を書いて、その原稿を見てくれと、エンゲルスに送ってきたわけですね。マルクスが死んで数年後のことでした。そのなかで、経済学者マルクスと社会主義者マルクスをごっちゃにして論じている部分があったようで、エンゲルスがその部分にかなり手きびしい批判を書くわけです。マルクスを「科学の人」として論じるときには、マルクスがどんな理想をもっていたかということを、議論のなかにもちこんではだめだ、マルクスが「科学の人」として、いかに真理にせまっていたかが大事だ、というのです。

 エンゲルスがここでいっているのは、マルクスが理想をもたなかった、ということではありません。マルクスは、もちろん社会主義者であり、その実現のために力をつくした革命家でした。しかし、マルクスは、経済学を研究するとき、社会主義の「理想」から出発して、それにあわせて剰余価値の学説をつくりあげたわけではありません。資本主義社会についての徹底した科学的研究によって、そこに資本主義の秘密があることを発見したのです。だからこそ、マルクスの経済学は、科学として、「理想」を異にする経済学者とも論争でき、これにうちかてるだけの力をもっているのです。これがエンゲルスの教えたことでした。もしその経済学が、「理想」を同じくする身内のあいだでしか通用しないものだったら、それは、科学の名には値しないことになります。

 エンゲルスは、そこから、「党人」、つまり、政治家としての任務にすすみます。「党人」としては、科学が明らかにした真理を踏まえ、それを実践に、また現実にいかに生かしてゆくかが任務になる、とエンゲルスは書いています。

 ここには、学問と政治のあいだの大事な関係がのべられている、と思います。学問にとっては、客観的な事実をいかに明らかにするか、真理にいかに接近するかが、基準です。政党や運動のあれこれの目先の利益を基準にして、それに都合がよいように、そのために「理論」を組み立てるなどということは、いささかもあってはならない、ということです。はっきりいえば、理論は政治の道具ではありません。そして、政治は、理論のしめすところをきちんと踏まえて行動してこそ、成功するのです。理論を政治の道具にしようとすると、旧ソ連で幅をきかせた「マルクス・レーニン主義」のような、堕落した存在になります。

 学問を踏まえた政党ということで、もう一つ、大事な点があります。私たちは、マルクスやエンゲルスの理論を勉強しますが、どんなに偉大な天才でも、将来まで見通してすべての問題に答えをだすなどということは、できることではありません。マルクスにしてもエンゲルスにしても、100年以上前の時代に活躍した人です。ですから、いま私たちが現に見たり経験したりしていることで、彼らの時代にはまったく存在しなかったということは、無数にあります。また、自然現象の場合のように、その時代にも存在してはいたが、科学の発展がそこまでいかなかったために、マルクス、エンゲルスが知りえなかったという問題も、無数にあります。ですから、マルクスやエンゲルスがのべている結論の一つひとつを無条件に鵜呑(うの)みにして、それを機械的に現代にあてはめるようなことをやったら、それは、学問の精神に反するやり方であって、理論や学問をそういうものとして扱ったら、政治の舞台でも大失敗にみちびかれるでしょう。本当の意味で、マルクス、エンゲルスを勉強するということは、彼らがいろいろな問題にぶつかって、ものを考えたその精神をつかみ、その精神をうけついで今日の新しい問題にとりくむということ、彼らが到達した科学的な成果を発展的に生かして、現代の諸問題にとりくむ、ということです。これが、学問、理論を踏まえるということです。

 私たちが、日本共産党の基盤となっている理論は何かと問われたときに、マルクス主義とも、レーニン主義ともいわない、科学的社会主義だといって、個人の名前に結びつける態度をとらないのも、ここにいわれがあります。

 こういう点をしっかりとらえながら、あくまで学問を踏まえ、社会の合理的な変革の道を追及するというのが、私たちの立場です。

●国内の権力者にも、外国の横車にも強い政党

 三番目は、日本共産党は、国内の権力者にも、外国の横車にも、非常に強い政党だということです。

 国内の権力者の問題では、日本共産党の歴史から、権力の迫害・弾圧も日本共産党を屈服させることができなかったし、財界・大企業の買収工作もいっさい通用しない政党だということを、見ていただきたいと思います。今日は、外国の横車の問題を話すことにしましょう。

 日本の政治と政党は、全体として、この点が非常に弱いのです。

 たとえば、旧ソ連の問題ですが、反共政党の政治家たちは、選挙のときなどは、ソ連のことを材料に日本共産党を攻撃することに実に熱心です。私たちが、ソ連とどんなにきびしい闘争ををやっていても、そんなことは知らないふりで、日本共産党をソ連の仲間扱いする、そういう点では、ソ連批判を大いにやって見せるものです。

 ところが、この政治家たちが、いざソ連の共産党や政府の首脳部を相手にして交渉をやるだんになると、本当に弱くなるのです。私たちは、いろいろな機会に、そのことをいやというほど経験してきました。

 十数年前のことですが、日ソのあいだで、千島周辺の漁業問題が、大きくもめたことがあります。政府だけにまかせておくわけにはゆかない、国会も応援にゆこうというので、超党派の議員団がモスクワにゆくことになりました。自民党の議員が団長になりましたが、飛行機がモスクワに近づくと、団長が「今度は漁業の話だから、領土のことをもちだして相手が機嫌を悪くすると困る。領土問題はいっさい口にしないようにしよう」といいだした。日本共産党の代表がそれはまずいと反対したので、これは申し合わせにはなりませんでした。だいたい、漁業問題でソ連ともめるのは、もともと、千島が誰のものかということが軸になって意見が分かれているからです。そのときに、領土問題にふれないままで、まともな交渉ができるわけはないのです。ですから、モスクワでのソ連側との会談では、私たちの代表は、領土問題で道理ある主張をしながら、漁業問題でソ連がとっている立場の不当さを堂々と批判しましたが、結局、領土の話にふれたのは、日本共産党だけでした。ソ連側を相手にしての掛け合いになると、いつもこんな調子で、他の党は、本当に弱腰なのです。

 私自身の経験ですと、まだソ連解体以前の、ゴルバチョフが書記長をやっていたときのことです。ゴルバチョフが日本にきて、国会で演説をしました。聞いていると、領土問題について、“あれは40数年も前に、われわれの前の世代がやったことだから、直しようがない、そんなことはあれこれいわないで、前向きにやろうじゃないか”という調子です。私は、あまりの話に驚いて、そのあと記者会見で感想を求められたときに、“言語道断だ。世界の政治のうえで、前の世代がやったことに責任は負えないなどというバカな話があるか”と痛烈に批判したのです。他の党は私の前に会見をすませていましたから、記者たちに「ところで、各党の感想はどうだったの」と聞いたら、「みんなゴルバチョフ演説をほめていた」というのです。かげではいろいろいっても、いざそういう現場になると、国会であれだけ傲慢なことをいわれても誰も正面から批判しようとしない。たいへん情けない状況でした。

 日本共産党は違います。相手が誰であれ、道理をつくして対応するし、必要な場合には、面とむかっての批判もします。私は、ゴルバチョフともそういう会談をしました。ソ連側の不当な干渉的なやり方を批判したのですが、彼はどこへいってもチヤホヤされていましたから、おそらく面と向かって批判されたのは、初めてだったのでしょう、こちらが冷静に論理を展開しても、みるみる顔が真っ赤になる(笑い)。私はロシア語ができないものですから、あとで聞いたことですが、「そんなことを言うのなら、さっさと荷物をまとめて帰ってしまえ」など、ののしり言葉まで飛び出したとのことです。あまりのことに、ロシア側の通訳がこの発言を通訳しなかったというほどです。

 こういう横暴な相手にたいしても、とことん道理をつくしてやるのが、私たちの外交です。

 ところが、他の諸政党は、アメリカにたいしても、旧ソ連にたいしても、中国、北朝鮮にたいしても、そういう外交はやれない。選挙での反共攻撃の材料に利用したり、軍事的な「脅威」をあれこれと問題にして、安保体制強化の口実に使ったりはするが、面とむかっての交渉となると、筋道のとおったことは、なかなかやれません。北朝鮮問題などでも、北朝鮮が核兵器の開発をやりそうだから、軍事的な対抗手段を講じようといった話は大好きですが、直接の交渉となると、社会党の代表団がいっても、自民党の代表団がいっても、いつもうさんくさい裏取引の話が聞こえてくる。ここには、外国の横車に弱いという、日本の多くの政党に共通の病気があります。

 かつて「文化大革命」のころの中国が、日本のニセ左翼の暴力集団などを応援して、北京放送や新聞・雑誌で、しきりに「武装闘争」を扇動したことがありました。これは、完全な内政干渉です。ところが、こういう内政干渉は許されないと批判したのは、日本の政党のなかで、日本共産党だけでした。あとの政党は、自民党、社会党から公明党、民社党まで“北京詣で”を競って、「ニイハオ、ニイハオ」と、誰が相手に気に入られるかの競争に熱中していたのです。

 ここに、日本の政治と政党の大きな欠陥があります。そして、ここに、日本共産党の非常に強いところ、自主独立の立場の大きな値打ちがあります。

 この弱点は、外国から資金のヒモがつくという大問題に結びつく場合があります。

 昨日のテレビで、60年の安保条約改定当時の首相・岸信介をめぐる報道特集がありました。この人物は、アメリカの情報機関CIAから自民党に秘密資金が流れ込む窓口となっていたことが、最近、アメリカ政府の内部資料で明らかにされました。日本の主権や独立に背をむけるだらしない外交をしていると、お金のヒモもついてくるのです。

 ソ連が崩壊したときには、ソ連共産党の秘密文書が表に出てきました。日本共産党のあれこれの人物が資金供与の対象になっているということで、マスコミが騒ぎ、私たちは、それらの文書をすべて調べあげて、これが、ソ連への内通者にたいする資金──日本共産党との闘争の資金であって、日本共産党とは無縁であることを、克明に証明しました。

 この調査の過程で、社会党関係の文書も、山のように出てきました。その一部は発表ずみですが、本当に驚くべき内容でした。

 社会党の財政委員長が、資金援助を求めてソ連にゆき(1967年)、ソ連共産党の国際部相手に、いまわが党は借金が8億円ある、利子だけでも1日27万円払わなければならない、年間予算はどうやっても4000万円は赤字になると洗いざらい話し、なんとかしてくれという交渉をやるのです。そのなかでは、党の決定で、中国派の連中に北京と貿易をさせているが、その収入が減ってきている、という内幕まで飛び出します。

 日本の政治の舞台では、こういた裏のお金の話は、死んでもいわない、墓場までもってゆく、というのが“よき慣習”になっているそうです。どの党からどの党に実弾が流れても、事実は明らかになりません。ところが、ソ連ではそうはゆかないのです。話を聞いた国際部の人間が、上に報告しないで自分だけの腹に収めたりしたら、自分の首が飛びますから、すべて克明な記録が残っており、それが、秘密の金庫から出てきてしまったわけです。

 こういう問題については、自民党も社会党も、事実には口をぬぐったままです。しかし、そういうことをやっていたのでは、自民党にしろ社会党にしろ、日本の本当の国益、日本国民の自主的な立場を代表した政治はできません。私たちは、この汚い根に大胆にメスをいれ、相手が誰であれ、この根をたつことが、どうしても必要だと考えています。

 こんなことが「日本共産党の自己紹介」の三点です。

 みなさんが、これから自然を見るときにも、社会を見るときにも、いまの日本の現実を見るときにも、私たち日本共産党を見るときにも、きょうお話ししたことをぜひ参考にしていただいて、学問がより好きになり、とくに日本共産党を少しでも好きになっていただければありがたい、このことを申し上げて話を終わります。

********* Q&A(主なもの) *********

●日本共産党は消費税廃止の公約を実現していない。これは公約の不履行ではないか。

 「実現までどのくらい時間が必要かは問題により違い、次の選挙で実現可能なものだけでは、政治の大きな展望は語れません。他党を批判するのは、公約に反して消費税の税率アップに賛成したからです。掲げたことを貫くことが大切で、日本共産党は党の創立時から国民主権の政治の確立を掲げ、1946年に実現しました。みなさんも運動を進める際、1、2年で実現可能なものだけでなく、5年10年かかる問題もあわせて考え、運動を進めてください。」

●好きな言葉は。

 「わりに好きな言葉は、“歴史は人間がつくる”というのをよくいいます。与えられたものでなく、いま生きているわれわれの力が集まって、歴史はつくりあげられてきたものだから、そういう意気込みで生きていこうと思っているんです。」

●大学で学んだことを社会にどのように還元したらよいのか。

⇒不破委員長は、基礎研究を軽視する日本の産学協同の問題点にも触れながら、「学問というのは、そこでつかんだことを自分の生き方に生かすということがまず大切だと思います。また、学問の性質によって、技術とか医学とか法律の分野とか、自分の専攻したものを社会のいろいろな問題の解決や前進に役立てるということがあります。広い視野で考え社会に還元してください」などと、答えました。

(参加者の感想より)

  • まず、不破さんの昔の話がユニークで面白かったです。
  • 日本の悪習慣は、社会が「変わらないもの」というより「変えてはいけないもの」にしている、というご指摘、非常に同感します。
  • 社会党の情けない姿と比較して、自分の党に自信を持ち、党名に誇りを持っている不破さんはじめいろいろな方は頼もしいと思う。
  • 「理論は政治の道具ではないが、政治は理論を踏まえていないといけない」という話は、私には深い意味までつかみきれてはいないと思うが、その通りだと思いました。何をするにも目の前のことだけでなく、将来まで見通して行動を考えないと、大きなことを達成することはできないと思います。ころころ意見を変えてくる政党とは違って、日本共産党は理論(ものの見方)があるから筋を通していけるのだと思いました。
  • 日本人は世界とか地球のスケールであまりものを考えないと思っていたが、不破さんは違った。日本共産党は、日本社会の納得のいかない点を指摘してくれる大事な党だ。(オーストラリアからの留学生)
  • 不破さんの話を聞いて、歴史背景なりを学んでつきつめていけば、自分のものにできるんだと思いました。大学で新しいものを見つけて自分のものにしていきたい。
  • 日本共産党のように学問をふまえ、これを人びとが暮らしやすい社会にするためにいかす政党があると元気づけられます。
  • うれしい学問の話
     不破さんがいっていたように、社会は変えられるのだという見方は、とても大切だと思いました。そういう立場で日本の社会を見ていきたい。
     それから、学問についての話をしてくれてうれしかった。こういう企画は、大学にいる人間ならだれでも参加できる企画。多くの同世代の人に聞いてもらいたいと思いました。
  • 研究の指針を得た
     ぼくの学科は砂漠の緑地化とかを研究しますが、薬害エイズの問題とかを見てると、多くの学生が自分の専攻は知らないうちに加害者になってしまうものではと不安に思っています。
     だから、社会に役立てる立場で学問をという不破さんの話に、学ぶうえでの指針を得た思いです。それを忘れなければ、研究の方向を誤ることはないと確信しました。
  • 政治の大切さ思う
     私たちは、患者さんの苦痛を少しでも和らげる看護技術をと勉強しています。でも不破さんの話で、それだけではいけないと思いました。
     看護の技術を向上するために努力することと同時に、日本の医療制度そのものをより良い方向に変えていくために、政治や社会に働きかけていかなければならないと思いました。

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