連続講座『学問のすすめ』第1回

「科学するおもしろさ」

講師:大槻義彦(早稲田大学教授)

【大要】 1996年4月26日

目次

1、科学でもわからないことがあるか
 ●理学博士による「理性のゆらぎ」
 ●無から有は生じない

2、宗教と科学の対立をめぐって
 ●科学者と宗教心
 ●科学者も人間である
 ●ニュートンの万有引力の発見
 ●宗教がなくなる時代はくるか
 ●科学のよそおいをとる新興宗教

3、人間の心の問題と科学
 ●物質化学で脳は解明できるか
 ●要素主義と構造主義
 ●宇宙人ははたしているか
 ●科学は傲慢という疑問について

 ご紹介いただいた大槻義彦です。

 本日のご案内のチラシにもありますが、私が「火の玉」を見たのは、第二次世界大戦が終わった一年後の小学校五年生のときでした。そのとき以来、私は自然というもののミステリーに心をうばわれ、科学者の道をえらびました。高校一年のときから「火の玉」写真を撮ることに情熱を燃やしつづけ、ついに約十年まえに、那須の山中で不思議な「火の玉」を撮影することにも成功しました。また、実験的に「火の玉」をつくることも研究し、1992年には持続的に発生する「火の玉」づくりに成功しました。こうした体験もあって私は、いわゆる「超常現象」とか「超能力」といわれる問題も、科学の目で見ればどうなのか、という批判的立場から、積極的に発言してきました。

 昨年(1995年)、霞ヶ関で地下鉄サリン事件が発生したときは、私は歯医者で診療中でしたが、突然、ラジオが地下鉄ホームで何か大きな事件が発生したというのを聞き、これは何か異常な出来事が起きたなと直感して、ただちに自分の目で見てみようと思いたち、車をとばして神谷町までかけつけました。このように私は、どのようなことでも、自分の目でたしかめる、自分の頭で考え、自分で調べないと納得しない性格の人間です。実は、こういう性格の人間をつくったのは、あの戦争でした。

 私は、小学校一年生のときから、「天皇陛下の御真影」が飾ってある奉安殿の前では絶対に頭を上げてはいけないと教えられ、奉安殿の前をとおるときは、いつも頭を下げてとおっていました。お祝い事などがあると、校長先生が白い手袋をして、奉安殿から何かをとりだしていました。しかし、校長先生が神妙そうに何かをとりだしても、生徒は頭を下げていますから、なんなのかわかりません。一度、校長先生が何をとりだすのか見たいと思い、そっと横目で見ました。そうしたらさっそく、目をつけた配属将校がすっ飛んできて、ぶん殴られ失神してしまいました。

 ところが、戦争が終わった九月の新学期、学校にいって「あっ」と驚きました。いなかの小学校で唯一、コンクリート製の建物であった奉安殿は粉ごなに壊され、「天皇陛下の御真影」は泥まみれになっていたからです。私は、たいへんショックをうけました。さらに教室にゆくと、いままで習ってきた教科書の炭塗りです。つい先日まで「いまに神風が吹くから日本は絶対に勝つ」といっていた先生が、日本は戦争に負けた、この教科書はまちがっているところがあるから炭で消すというのです。このときから私は、自分の頭で考え、自分で調べて確認したもの以外は納得しない性格になったのです。これが、私の自然科学者としての、いわば原点でした。

1、科学でもわからないことがあるか

 私が「超能力・霊能力」をきびしく批判していることにたいして、霊能者を支持する人びとは、よくいいます。

 「おまえは科学者だというが、科学でわからないこともたくさんあるだろう。科学でわからないことがあるのに、何でも知ったかぶりをして、『非科学的だ、科学的根拠がない』と断言できるのか。霊能者は私の目の前で、じっと見つめただけでスプーンが曲がったんだ。ほんとうに私は見たんだ」と。あるいは、「ある霊能少年が、新宿にある漫画家の事務所から、『さあ、これから家に帰ります』といって自宅まで帰っていった。タクシーをすっ飛ばしても、30分や40分はかかる距離を、なんと数分後に自宅に電話してみたら、『もう帰ってますよ』といわれた。こんなことは信じられない。だから科学でわからないこともたくさんあるのだ」と。

 もちろん、科学でわからないことは山ほどあります。物理学でもわからないことがあるのは当たり前です。しかし、物理学という科学によって、わかったこともあります。いままで物理学でわかったことがあるから、物理学という学問がある。たとえば現在、物理学という学問分野だけで、全国の大学院で学位をとる人は年間に約200人いますが、それは、科学でわからないことがあるから、わからないことを研究し、その研究成果によって学位をもらっているわけです。物理学会の会員は約二万人いますが、会員の半分は研究発表します。わからないことがあるから研究し、発表します。わかっていることは研究する必要がないからです。

 しかし、見つめただけでスプーンが曲がるとか、ここにいる人が瞬間的に別の場所にいるとか、エックス線でもないのに人間の目に隠された字が読めるという「透視」などというものは、物理学の基本的な見地に反する。簡単なことです。

 もし、物理学という学問分野でわかったことが何もなく、規則性も法則性もわからなければ、どうやってみなさんに講義しますか。私も大学の教科書を書いていますが、いままでの物理学の知的財産があるからこそ書けるのです。かってに想像したり、思いつきで書いているわけではありません。教科書にあるのは、物理学が発見した普遍的真理のいくつかがもとになっています。

 物理学の分野では、これまでに発見されたいくつかの基本的な真理、たとえばエネルギー保存の法則、運動量保存の法則、エントロピー増大の法則、相対性原理など、普遍的法則というものを見つけています。それ以外にも、物理学の法則は約一万個ぐらいのものがあります。それらの法則のなかには、日ごとに書きかえられ、新しい法則の発見によって一部否定されるものもあります。しかし、いまあげたような基本的な原理は、客観的真理すなわち普遍の原理であり、これが破れることがないことは証明されています。証明されているだけでなく、多くは実験的にも確証されています。

●理学博士による「理性のゆらぎ」

 エネルギー保存法則などは揺るぎない法則です。だから無から有を生じることもない。有が無に帰することもない。エネルギーというのは、運動エネルギーや位置エネルギーなど、さまざまに形を変えることはあっても、絶対不変のものです。

 ところが、いま、視聴率第一主義のテレビなどで有名なサイババというインドの霊能者は、神の化身として、「虚空から物質化現象によって灰や神々の像、指輪、ネックレス、時計などを取り出し」、人々の未来を予知し、病をなおし、人の心を読む、といいます。サイババにとって、無から有を生ずることなど簡単です。サイババが「何もないところから」時計を「物質化」したシーンや、ビブーティ(神聖灰)という灰や金粉を手のひらからポロポロととりだすシーンのビデオ映像を、テレビで見た学生の方もいるでしょう。

 あろうことか、このサイババの“超能力”に、すっかり心酔してしまった東大大学院出身の理学博士がいるというからあきれた話です。彼は『理性のゆらぎ』という本をだしていますが、無から有が生じるのを見て「理性が揺らぐ」のなら科学者をやめればいい。理学博士の学位を返上すればよいのです。なぜなら、彼は、吸入麻酔薬のメカニズム解明のため、無から有は生じない原理であるところのエネルギー保存法則に依拠した研究によって学位を得ているからです。彼の研究とは、要するに電子の運動を記述する「シュレディンガー方程式」を使った計算です。ところが、シュレディンガー方程式の左辺にはエネルギー保存の法則がくみこまれています。エネルギー保存の法則に自信がなくなり、シュレディンガー方程式の左辺が誤りだとわかったのだったら、彼は右辺だけで議論すべきということになります。そんなことはありえません。

 しかし、いまだに東大理学博士の肩書で『理性のゆらぎ』という理性への挑戦をおこなっている。けしからん話です。

●無から有は生じない

 エネルギー保存法則への理性が揺らぎ、無から有をとりだすことは可能である、などという議論は、すでに、科学という学問が成立する以前の段階、いまから2300年もまえに、ギリシアの哲学者デモクリトスによって、徹底して批判されていることです(岩波文庫、ルクレティウス著『物の本質について』参照)。

 デモクリトスは、「神」と「宗教」にたいするきびしい批判をおこない、「何ものも神的な力によって無から生ずることは絶対にない」とのべています。物はすべて、原子と「空虚(=真空)」からできていると喝破しています。重要なことは、デモクリトスが、原子の運動を支配するのは「神のみ心」などでなく、自然の法則性なのだ、といってのけたことです。万物は原子でできており、地も大気も星も、そして無限の宇宙も原子からできている。したがって宇宙を支配するのは、神ではなく、自然の法則なのである。無から有は生じないし、有(物)は無に帰さない。そうでないなら、遠い遠い過去にできた物はすべて無に帰してしまい、いまは、何も残っていないはずだからである、といっています。

 エネルギー保存法則が発見されるまえから、デモクリトスは有が無に帰することはない、万物は原子でできている、といっていたのです。その原子とは、万物といっているかぎり、われわれの回りの日常の物質だけではない。遠い遠い宇宙のかなたまでの万物です。そして、それだけではない、われわれ人間も万物です。その万物が、すべて原子でできている。つまりデモクリトスは、われわれの身の回りの物質も原子でできているし、遠い遠い宇宙のかなたも、また人間も、原子でできている、といったのです。

 当時は、キリスト教すら生まれていなかった時代です。世はまさにシャーマニズムの時代です。われわれの社会と自然を支配しているのは、すべて得体の知れないシャーマニズムです。日常的に身の回りに起きることは、人間の経験や人間の知識の範囲内で処理可能に見えても、あの天空だけは神が存在する世界である、人のふれることのできないアンタッチャブルな世界だと考えられていました。そのときデモクリトスは、天空までが原子でできていると喝破しました。

 では、人間の体はどうか。当時、人間ほど神秘的なものはありませんでした。人間が人間を知ることはできないといわれていました。その時代に、デモクリトスは、人間も原子でできている、それだけでなく、その原子の変化とか運動を支配するのは神々でなく、規則性というものが支配している、といったのです。まだガリレオの時代ではありません。そのときに、万物は原子でできており、原子の運動や変化を支配しているのは規則性である、いまでいう物理法則だといってのけたのです。これはおどろくべき話です。当然、シャーマニズムとは真っ向から対立し、デモクリトスはもちろん、その後継者たちの著作物もほとんど残っていません。のちにルクレティウスという人が、デモクリトスの原子論を伝え聞き、それを散文詩の形で残したものが『物の本質について』です。

 いま、私たちが霊能者や超能力者ときびしく対立しているのと同じことが、すでに2000年以上も前に、こうした神秘主義とのたたかいとして、はじまっていました。

 科学の歴史は、長期にわたる宗教の側からの拒絶と弾圧をうけながら、それとたたかってきた歴史です。物理学の歴史は、このような世の中にはびこる不合理なシャーマニズム的な見方、宗教がしめす自然観・世界観の誤謬を、一つひとつ正していく活動でした。ふりかえって、デモクリトス、ガリレオ・ガリレイ、ニュートン、ファラデー、J・J・トムソン、ラザフォード、ハイゼンベルク、アインシュタインという流れをたどると、宗教的な誤謬や、反科学的、非科学的、反合理的、神秘主義的、不可知論的なものにたいする一つひとつのたたかいが科学の歴史だったのです。

2、宗教と科学の対立をめぐって

 私が、積極的にテレビに出演して、超能力・霊能力をきびしく批判する理由は、ただ一つ、この国がオカルトに毒され、シャーマニズムの世界に逆戻りしているのではないことを内外にしめすためです。つまり、この国が先進国の一つとして、その社会が健全であることをしめすためです。

 私がテレビで何を訴えようとしているのかを理解しない人もいますが、なかには私の意図を鋭く見抜く方もいます。たとえば、著名な犯罪心理学者である小田晋・筑波大学教授などは、ある週刊誌のインタビューにこたえ、“大槻の超能力批判は、ある意味ではひじょうに合理的だ、なにしろ彼はコチコチの唯物論者だからだ”といっています。私にかぎらず科学者は、自分の研究分野では、すべて物質を対象にして、その物質の存在と、その運動と変化を研究します。だから科学者は、基本的に唯物論者ということになります。

●科学者と宗教心

 私がそういうと、「しかし、物理学者でもりっぱな宗教心をもっている人はたくさんいる。たとえばガリレオやニュートンもそうだ」と反論する方がいます。ガリレオの場合は、教会からの弾圧を回避するためのカモフラージュですから、議論の対象にはなりません。しかし、ニュートンが晩年、“神の存在を証明する方程式”をつくり、世のひんしゅくをかったのは事実です。

 もちろん、『物理学事典』のニュートンの項目に「神の存在を証明する方程式をつくった」と書かれているわけではありません。けれども、ロンドンのウエストミンスター寺院にあるニュートンの墓碑銘には、「神の存在を証明する方程式をつくった物理学者ここに眠る。万有引力の法則を発見し、ニュートンの三法則を発見」とあります。

 中間子理論を発見してノーベル物理学賞を受賞された湯川秀樹先生も、晩年は熱心な仏教徒になり、亡くなられる少しまえに書いた論文では、“この世の中で、物理学でわかる世界はほんのわずかであり、ほとんどは科学でわからない。それは仏陀だけが知っている”というほどの仏教徒でした。もともと仏教思想がいう「悟り」とは、世の中にはわからないことがあることがわかる、ということを意味しています。世の中には仏陀しか知らない世界がある、科学にはタッチできない世界がある、物理学でわかる世界は、自分の研究でほとんど知りつくしてしまった、というわけです。

 にもかかわらず、それから数年後にクォークが発見されました。95年には、最後の六つ目のクォークが発見され、すべてのクォークが実験的に見つかりました。ものごとを究める人類の研究は今後もつづくでしょうが、神だけが知っていて科学にはわからない世界があるなどというのは、信仰者の迷信にすぎません。クォークの発見はそのことを象徴しています。

●科学者も人間である

 宗教と科学というテーマの問題でいうと、先日、ある大学のキャンパスに大きな立て看板がありました。「科学者と宗教」という講演会の看板でした。この講演を主催したのは宗教関係のサークルらしく、パンフレットや本を配っていました。講師も、この宗教に深い関係のある方のようでした。この一年間、オウム真理教の「科学者集団」と称する200〜300人もの人びとが大問題になっていましたから、「科学者と宗教」というテーマは時流にのっており入場者も多数いました。

 講演がはじまると、講師は、いかにも宗教者らしくもの静かに語りだしました。

 ――この科学万能の世界でも、宗教はけっして下火とはならず、それどころか、なおいっそう人びとは宗教を求めている、科学の世界では知りえない世界がある、宗教は科学に負けるどころか、実は、宗教はつねに科学の上位にある、ニュートン、ハイゼンベルク、アインシュタインのような偉大な科学者も、宗教の影響をうけ、とくに晩年、熱心な宗教者となったこと、などを強調していました。

 科学者も人間ですから、多くの不安や恐怖、苦しみをもっています。だから、さまざまな知的活動、知的思考によって、不安とか恐怖を乗り越えようとします。にもかかわらず、科学者も、ほかの人間と同じように、人間としての苦しみを癒(いや)すために、宗教に傾斜していくことがありえます。それは、おかしなことではありません。その意味で、「科学者と宗教」というテーマは、「文学者と宗教」「芸術家と宗教」「政治家と宗教」などというテーマとまったく同じであり、ありふれたものです。

 科学者も病気になり、宗教にたよるときがあります。宗教の暗示効果によって、抵抗力や免疫力がつくこともあります。除霊とか心霊治療は「催眠効果」を利用したものです。この手法が、それなりに効果を発揮し、西洋医学で見落とされがちな、セラピイスト的(精神療法的)治療を補完してきた点は、見落とすわけにはゆきません。こうしたことは科学的に研究されています。別に不思議でもなんでもない。だから宗教を信じることによって、多少健康を回復することもありえます。

 しかし、「科学者と宗教」の問題で、科学者が晩年、どんな言動をしていようとも、どんな宗教にゆこうとも、その人が科学的真理を発見したときに唯物論的な立場にたっていたことを否定するものではありません。

 湯川先生が晩年、いくら仏教の立場にたとうとも、中間子の質量と電荷を、すべて物質として予言した、その業績の事実には変わりはありません。それが実験によって発見されたから、湯川先生は「中間子の予言」といわれました。湯川先生が若くして東北大で中間子論を発表したときは唯物論の立場にたっていました。もし、そのとき、少しでも神がかり的な発表をしていたら、論文はうけつけられないし、実験で検証されることもなかったでしょう。

●ニュートンの万有引力の発見

 ニュートンの場合も同じです。万有引力を発見したときニュートンは、「万有」といいました。つまり、地上の物と物のあいだで働く引力だけでなく、月の世界にも、宇宙のはてまでも働く力であるということです。当時はまだ、天空だけは神々が支配する世界だと頑(かたくな)に信じられていました。その時代にニュートンが、わざわざ万有という言葉を使ったのには深い意味があります。きわめて勇気のいることでした。ニュートンは、この引力が日常的な力ではなく、宇宙のはてまで、宇宙すべてに共通して成り立つ真理であることを発見したからです。

 ニュートンが万有引力を発見したのは、リンゴが落ちる実験を100回やってみて100回ともリンゴが落ちたから、それで万有引力の法則を発見したのだ、という人もいますが、そうではありません。そういう考え方を「経験主義」といいます。自分の経験したことだけを絶対視する、せまい主観的観念論です。もちろん、科学の発見の動機に経験があることは否定できません。科学者も、最初は素朴で経験主義的である場合もあります。

 しかし、科学研究においては、まず哲学的なものの考え方が根底にあります。万有引力の発見で、もっとも大事な哲学はなんだったのか。それは、それまでは力は物が媒介して伝わると考えられていたのにたいし、万有引力は何にもない真空を伝わるという点が大事なポイントです。「真空」を忌(い)みきらったアリストテレス流に考えれば、空気があるから、その空気が押したり引っ張ったりして、だからリンゴが落ちた、となります。そこからは、何にもない真空中を地のはてまで万有引力が伝わるという発想はでてきません。経験主義的な立場では、けっして万有引力の法則は発見できないのです。

 この宇宙の秩序を構成している万物には、どのような相互作用が働いていなければならないかを考えると、真空中でも伝わる力を仮定せざるをえません。これが万有引力発見のきっかけです。しかも、地球を回る月の運動、それから火星をはじめとした他の惑星の運動すべてが、万有引力の仮定によって成り立つことがわかったのです。ニュートンは、少なくとも、そのときは唯物論の立場にたっていたといわざるをえません。

 われわれの合理的な思考では、その背景にかならず物質があります。物質のないところには、なんの法則性、規則性もありません。規則性、法則性のない物質もありません。物質が存在するということは、その属性として変化や運動の特性、法則性がある。法則性のないところに物質はなく、物質がないところに法則性はないのです。

 われわれがこの宇宙を理解するときも、宇宙に存在する物質という存在をまず肯定する。そして、その肯定は、同時にその物質のもっている基本法則、基本的な特性の存在も認めることになります。それがそういうものかを、科学はどんどん解き明かしていくのであり、事実解き明かされつつあります。

●宗教がなくなる時代はくるか

 科学も、宗教も、人間の知的活動の一つの側面ですが、それはしばしば対立します。しかし、自然観、世界観にかんしての科学の勝利はあきらかです。20世紀の後半までの科学と宗教の論争を見れば、科学のほうが格段にすぐれていたことがわかります。

 たとえば、ローマ法王庁は、世界の常識になっている地動説を数百年にわたって認めませんでした。認めたのは、つい二年ほどまえのことです。しかも、進化論はいまだに認めていません。その教えを頑固に守りつづける南部アメリカなどでは、高校の理科教師が進化論を教えたことによって告訴され裁判になっています。その救援と応援のために多くの科学者がたたかっています。いまだに宗教的な誤謬はつづいています。宗教も知的活動の一つの側面として存在していますが、こと自然観、世界観にかんしてはあきらかに科学の勝利です。科学が宗教よりはるかにまさっていることは、だれ疑うことなく、一目瞭然です。

 だから、人間の知的活動は、宗教がなくなる方向ですすむでしょう。もちろん、宗教をなくさなければならないというのではありません。宗教はやがてはなくなるでようが、簡単ではありません。

 さきほども晩年の科学者の例で紹介したように、現段階では宗教が役割をはたす条件があるからです。人間がもっている苦悩とか、悲しさ、孤独、恐怖、不安などが、宗教などにたよることなく、知的合理的な考え方をつうじて解決されていく日は将来、かならずくるでしょうが、いまは、そういう条件にはなっていない。そのように前進してゆけば、宗教はそれだけ後退してゆくでしょうが、科学が進歩したからといって、人間の不安感とか、死の恐怖、孤独などがそう簡単に解決するわけではない。

 そういう意味で、宗教が役割をはたしてゆく日は、まだまだ長くつづくと思います。しかし、宗教がなくなる方向に向かっていくことは事実でしょう。人間の知的活動の進歩によって、少しずつ後退していくであろうと思います。

●科学のよそおいをとる新興宗教

 こうした「科学と宗教の対立」とは別個の問題が、いま一つあります。それが反科学主義という流れです。現代の科学の進歩に目をつぶって、反科学的な態度をとる人が少なからずいます。こうした人たちは、容易に新興宗教に流れてゆきます。霊能者・超能力が流行するのも、これが一つの基盤にあります。

 しかし、反科学主義の立場にたつならば、いま、現代社会でおこなわれている科学的な作法というもの、たとえば医学でもよいし、あるいは広大な科学技術のうえにたつ輸送とか通信など、現代のあらゆる進歩的達成のすべてを拒否すべきです。自分の都合のよいところだけは科学の成果、科学文明に安住する態度をとり、自分の知識でわからない問題があると、安易に反科学主義に走るというのではつじつまがあいません。そういう人は、現代社会の科学文明をいっさい信じてはいけないはずです。したがって、安心して飛行機には乗れない。万有引力や浮力という法則を信じないのですから、飛行機が落ちはしないか不安なはずです。新幹線も不安で利用できない。一方では、科学を信じてその科学文明のなかで生きながら、他方では、科学の原点をいっさい信じないという人は、不幸な人です。

 一方、科学のよそおいをした新興宗教があり、それをどう見るかという問題があります。新興宗教のなかには、たとえば「オウム真理教」「幸福の科学」「霊波之光」のように、一見、科学を前面にだして、真実味をあたえようとするものも見られます。これは真の科学でもなんでもありません。

 たとえば「霊波」という言葉を使ったからといって、少しでも科学に近づいたわけではない。波とは物理用語であり、物理的実在です。運動場とエネルギーをもっています。光も物理的実在です。しかし、霊波の実態は何か。波のエネルギーと運動量の関係は「分散関係」にありますが、では、霊波という波があるのか。それがあるなら、分散関係はしめせるはずです。それが、実際に実験でたしかめられるならば、私も霊波の存在を認めます。霊波と称しているが、その定義もできない、測定の仕方もわからないというのでは、たんなる言葉の遊びです。

 一見、科学の用語を使ったり、科学集団の装いをとっていますが、まったく科学とは無関係です。むしろ逆に、反科学的な態度の一つのあらわれです。宗教的な神秘主義をいかにすぐれた物理学者が正当化しようと、宗教の側が援助しようと、あるいは科学者の側が協力しようと、それは無駄です。ニュートンの“神の存在を証明する方程式”の破綻を見ればわかります。

 唯物論の第一人者ともいえるマルクスやエンゲルスも、19世紀に蔓延(まんえん)していた反科学思想やオカルトまがいのまやかしにたいして、唯物論の立場から毅然(きぜん)としたたたかいを挑みました。エンゲルスの『自然弁証法』にも、オカルトまがいとのたたかいがでてきます。

 最近、私は、あらためてマルクスやエンゲルスの著作を読んでいます。なぜかというと、ソ連崩壊によって、なにかマルクス主義が失敗したようにいわれていますが、そうではないからです。マルクスやエンゲルスの思想、その自然観、世界観は今でも生きています。科学者としての私の指針は、マルクスやエンゲルスの唯物論的弁証法の世界観ですが、これが否定されたという話は聞いたことがありません。私の研究生活や教育のなかでは、この唯物論的弁証法の世界観の正しさはきわめて明瞭であります。テレビで霊能者を批判するときも、いつも頭にあるのは、この唯物論的な立場です。私は、いまあらためてマルクス、エンゲルスのもの、とくにエンゲルスの電磁気学にかんするものなども熱心に読んでいます。

 宗教が後退し、科学が進歩していくことは確実です。

3、人間の心の問題と科学

 宗教の最後の砦は人間の神秘性です。

 ついこのあいだまで、人間のもっとも不思議だといわれる、進化・遺伝と人間の心・精神の二つだけは、絶対に科学では解き明かせないといわれてきました。しかし、遺伝の問題については、1953年にエックス線回折の手法によって遺伝子(DNA)の二重螺旋(らせん)構造があきらかになりました。いまでは、何百億、何兆といわれるヒトの遺伝子情報のすべてを、スーパーコンピューターを使って自動解析をしようという「ヒトゲノム計画」がすすみ、着々と解読されつつあります。21世紀には基本的情報のすべての解読がなしとげられるでしょう。

 つぎに人間の心、精神活動の問題です。どんなに科学がすすみ、遺伝子の解明が発展しようと、心の問題だけはアンタッチャブルなものと考えられてきました。宗教の最後の砦が「人間の心」です。人間が見つめただけでスプーンが曲がるという人びとは、これが唯一の砦だと思っていますが、とんでもありません。

 最近の脳科学の進歩ほど、すごいものはありません。人間の性格や心の働きも、脳内の電流素片(インパルス)の分析と刺激のあらわれ方、およびそれらの相互作用という形で解明がはじまっています。超伝導量子干渉計(SQUID)(スクイド)は、脳内に発生する電流素片から放出されるきわめて微弱な磁気、磁気波動を測定する装置です。その測定精度はケタはずれによいことが特徴です。その他の観測装置とあわせて、脳のなかで心・意識と同時に発生する脳の電流素片、その互換血流、タンパクの生成と消滅などがわかるようになっています。人間の脳活動の全容が、物理学その他の学問であきらかになる日も近い。

 いまでは、人間が恋をすると、脳の中で、どこにどんな大きさの電流が流れて、その電流がどこに伝わっていって、どのような物質をつくりだすかまでわかっています。

●物質科学で脳は解明できるか

 人間の脳には、いろんな感情があり、芸術的な活動もあります。だから非常に複雑です。この自然界のなかでもっとも複雑なものの一つです。しかし、われわれの自然観は、だからわからないという立場はとりませんし、あきらめません。やはり科学で挑戦する価値があります。いままでの科学の歴史から考えて、どんな複雑なものであれ、かならず規則性・法則性が見いだされます。

 人間の脳を物質科学的に解明をしてみて、それで人間の脳の活動のすべてがわかるか、とよく聞かれます。たとえば人間は、なぜすばらしい芸術を生みだすことができるのか、それが物質科学によって知ることができるのか、また知ることができたら、それをコントロールすることができるのか、ある人に、たとえば超短波を放射することによって、すばらしい芸術を生みだせることができるか、という質問です。私は、それはある程度可能だと思います。脳を見習ったコンピューター、自分で判断して自分で分析して、自分で行動まで指示し、自分で行動するような脳コンピューターが、いまつくられつつあります。科学の進歩はかぎりはなく、そうした分野の研究で、つぎつぎと新しいことがわかってくるでしょう。

 しかし、脳も原子でできていることから、一つひとつの原子についての運動を記述するシュレディンガー方程式を解けば、その人の判断から芸術活動、心の動き、恋心まで全部わかるかというと、それは決定論という誤りにおちいります。素朴決定論というのは誤りです。どんなに原子論がわかっても、それはミクロの世界の合算であって、マクロな世界にそのまま通用するわけではないからです。自然には、宇宙を支配する法則のあり方と原子の世界を支配する法則のあり方ではちがいがあるように、運動法則の階層性があります。ある自然の階層を探究しようと思ったら、その階層に即した法則性を見いだしていかなければなりません。いまは、脳の中のミクロの世界を探究しつつある途上ですから、そのうえで、つぎの階層の研究にすすまないと、そこから先はわかりません。

●要素主義と構造主義

 そうした新しい研究がはじまっている分野もあります。21世紀は、カオスとか自然の形状という「複雑系の物理学」が非常に注目されています。たとえば、海岸で砂の波打った形がなぜできるのか、できるとすればそういう規則性・法則性があるのかも物理学で解明しようという方向にすすんでいます。

 科学の歴史を考えてみますと、一方には、物質を一つひとつの要素に分割し、その要素をきわめつくし、要素でもってすべてのものを説明しようという要素主義的・アトミズム(原子論)的な方向があります。デモクリトスや、ドルトン、ボイルなどがそういう立場をとっています。

 もう一方では、われわれの身の回りの複雑な系とその系同士の相互作用をそのまま探究して、そのあいだの関係を証明する、それをつかみとろうとする方向があります。いわゆる構造主義というものです。そういう方向も科学の歴史の中にはありました。

 これからは、いままでのアトミズム的・要素主義的な方向だけでなく、自然のもっている階層特有の複雑系とその作用を理解して、そのなかで規則性を見いだそうという構造主義的な方向にも科学はすすみます。科学の歴史では、いつでも要素主義的な傾向と構造主義的な傾向がくりかえされて発展してきました。

 この問題と関連して、「実体から関係へ」というのが科学研究の新しい流れである、実体を考える学問は時代おくれになったという考え方が、最近みうけられます。具体的に考えると、たとえば環境問題があります。環境問題というのは、大変アトミックな問題です。しかし、要素主義的な分割だけではわかりません。非常に複雑で、しかも相互に関係しあっているからです。

 たとえば成層圏のオゾンホールという問題が、突如として浮上したとき、これまで、どんな科学者もオゾンホールなどということを予想した人はいませんでした。だから、この分野は、あすにでも、環境科学の難問が突如として発見されるかもしれません。これまでは本当の意味で環境科学を専門的にやる研究者もいないし、そういう学科もほとんどなく、そのような発想もありませんでした。だから環境科学とは何か、というテーマそのものが、まだわかっていない。

 そこから、要素主義的なものは唯物論的であり、構造主義的なものは、いままでの唯物論から外れているという、論理を飛躍させた考えをもつ人がでてきます。それは、まったくのまちがいです。われわれが問題にしているマクロな相互作用は、相互作用だけをとりだし、それだけを考えれば、それは一見、物とは関係のないようにみえます。しかし、その相互作用は、いったい何から発生しているのか。当然、物の存在、事物の存在からです。当たり前の話です。だから、どのような構造主義的な研究においても、関係や相互作用だけを基本にするのではなく、物としての実在がふるまう、そのふるまい方を議論せざるをえません。物を無視して関係だけを議論しようとする立場は、一見もっともらしく聞こえますが、まったくの誤りです。

 20世紀は、細部にわたって、精密な要素主義的科学が進歩しました。脳をそれで解明しようとして、ある程度すすみました。しかし、これから先は、やはり脳を脳全体としてみるような構造主義的な見方、しかも物質科学の一つであるという立場で研究がすすむ時代になります。そうすれば、脳科学は、心理学、医学、化学、生物学、物理学などの専門領域をとりはらった、広範な一つの学問体系ができあがり、さらには文学、芸術的な分野もふくめた学問に進歩するでしょう。

 いずれにしても、肝心なことは、学問を信頼することです。

●宇宙人ははたしているか

 以上で私がいいたい基本的なことはつきています。

 このさい、ついでに、よく質問にでてくる、宇宙人はほんとうにいるのかという問題について、ふれておきたいと思います。これにたいして私は、「宇宙人はいます」と答えることにしています。なぜなら、地球人がいるからです。われわれの地球や太陽系は、広大な宇宙からすれば、とくに例外的な存在ではありません。偶然に、地球・太陽系と同じような条件にあるような星はいくつもあるでしょう。

 この広大な宇宙、さらに気の遠くなるような時の流れのなかで、ほかの星に宇宙人が進化することを、だれも否定できません。宇宙のごくせまい範囲、たとえば、われわれの銀河系星雲(最大長は10万光年)の1000光年以内でも、1万年に1個ぐらいの割合で新しく星が誕生し、このうち0.01%ぐらいの確率で宇宙人の進化が起こっていると考えられています。約1万個の同じような条件にある星があるでしょう。だから宇宙人はいます。だからこそ、われわれは、地球外の知的生命の探査計画(SETI)などで、宇宙人がいるだろうと思われる方向に向かって電波のメッセージを送りつづけているわけです。宇宙人たちの自国=星での通信電波を傍受しようと、すでに5年間も観測をつづけています。そのなかで、たしかに奇妙な信号、地球上での人工的な信号ではなく、自然のノイズでもない、きわめて不思議なノイズが、すでに13個ぐらい検出されています。まだ、それだけでは足りないので、いまも観測をつづけています。

 もちろん、生物がいるといっても、進化の過程はものすごくちがうでしょう。まだ単細胞生物しかいない星もあるだろうし、人類のはるか先まで文明が到達している世界もあるかもしれない。そういうことは否定できません。したがって、物理学者や宇宙物理学者は、ただの一度も、この宇宙で地球上の人間だけが唯一の知的生命であるなどと考えたことはありません。

 しかし、テレビなどが大騒ぎし、1年間に3万件とも4万件ともいわれるUFO宇宙人がやってきたという情報の真偽については、即座に答えがでます。ちょっと計算してみればわかります。広大な宇宙のなかで、かりに光の速さで走ったとしても、とくに地球だけをねらって、どうして宇宙人が到達することができるのか。そんなことは絶対にありえません。

 たとえば、アフリカにも東京にもアリはいます。ほぼ同じ形をしています。しかし、アリの一生のなかで、アフリカのアリと東京のアリが出会える確率は限りなくゼロです。だからアフリカにアリがいないかというと、そうではない。宇宙人はいますが、そんな日常茶飯事にくるわけがない。

 にもかかわらず、あるテレビ局は、「宇宙人を解剖する極秘のフィルムを入手した」という特別番組を、新年早々に組みました。頭部に最初のメスがはいるところが大写しにされると、コメンテーターとして登場した外科医が、「これは専門家がやっている」と保証したのです。そんな荒唐無稽(こうとうむけい)な馬鹿げた話はありません。もし、解剖した人が、専門家ならば、その結果は当然、学会や専門誌に広く公表されるはずです。もちろん、そのときの解剖結果の標本やスライドもあるはずです。いったい、それがどこにいってしまったのか。データもなければ発表もされない科学的実在などというものはありません。それにしても、この「宇宙人の死体」は、コメンテーターの医師が感心するほど人間に似ていました。それなのに、手の指だけが6本あったのです。これこそ、まさに「とってつけたような話」ではありませんか。

●科学は傲慢という疑問について

 私がこのようなことをいうと、科学でなんでもわかるとはいえないのではないか、科学に傲慢(ごうまん)さを感じる、という質問がでます。私は、科学ですべてがわかるといっているわけではありませんし、科学者はそう考えていません。われわれの物質世界、われわれの自然は、すべて科学で解明することができるといっているだけです。

 ただ、そうした質問の背後に隠されている、科学でわからないことがあり、だから超能力、霊能力はあるんだと飛躍してゆく議論は否定しなければなりません。スプーン曲げや、空中浮揚、透視実験、瞬間移動、テレパシー力……、こういうものは科学以前の問題です。

 そうしたいかがわしい非科学的、反科学的なオカルト主義者に対しては、科学はいつも正しい意味において傲慢でなければならない。そうした非科学を否定しないから、若い人たちが懐疑論的なものに傾斜してゆくのです。自分たちの知識の不十分さを棚にあげて、結局は学問を深く学ぶこともなく、安易に不可知論にはいってゆく。これは非常に簡単な方法であり、不可知論の立場をとれば、これほど楽なことはありません。科学ですべてがわからないということを彼らが主張するときには、いつも不可知論の立場をとります。それにたいしては、きわめて断定的に否定しないと、教育上、非常に悪い。

*        *

 21世紀に向けて、科学を発展させてゆくのは、商品生産優先ではなく、人びとの生活優先の思想でなくてはなりません。しかも、それが人類の文化・文明として価値あるものにならなければなりません。

 まだまだ、わからない神秘的なことが私たちのまわりにはたくさんあります。「不思議だ」と感じることを、すぐに超能力や霊のせいにするのでなく、科学的な姿勢で追及していく態度がたいせつです。

 科学というのは、私たちの夢とロマンをひきつける神秘にみちた魅力的なものです。

(参加者の感想より)

  • 「最先端の科学は哲学ではじまり哲学に終わる」。すごい言葉ですね。物事をどうとらえ、どう考えるのか、その根本が違うと結局は科学にはならない。 
  • 生きていく上でいろいろと困難があると「もうわかんないよ」となげだしてしまいたくなることもあるのですが、人類が長い歴史の中で自然のしくみを合理的に解明してきた事実にとても励まされています。

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