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みんせいは、平和・環境・人権・社会科学など、様々な社会問題を事実に即して科学的に学び、社会をよくしていくために、できる範囲で行動しているサークルです。

現場に立って考える。ACCESS

いわき市〜福島県浜通りフィールドワーク(2014年9月)

  

 原発事故で避難区域となって、現在も住めない地域の面積は約1000平方キロメートル、およそ東京都の半分です。
 およそ13万人の方が避難生活を余儀なくされています。
 行きの車内でDVDを観たのですが、避難生活の極度のストレスで、幼い頃から福島で育ち、何十年も一緒だった奥さんを焼身自殺で亡くされた、男性の方の話を知りました。
 その方は東電に対し裁判を起こし、裁判では自殺と原発事故の因果関係を認めた判決が出たそうです(東電は裁判の中でそうした因果関係を認めず、その自殺した方の「個体の脆弱性」が原因だと主張したそうです)。
 奥さんは、もともと明るい性格でしたが、事故が起こって避難生活をしてから精神を病んでしまい、たびたび旦那さんに泣きついたりしていたそうです。
 避難生活の辛さや、故郷に戻れない辛さは凄まじいものだったのだろうと思います。
 ずっと連れ添ってきた奥さんを失った男性のことを考えると、あまりに可哀想すぎるだろ、という気持ちになりました。
 ちなみに、福島県の震災関連死(避難の結果生じる環境激変などによる)の死者数は、地震による直接死の死者数を上回っているそうです。

 福島県楢葉町に住んでいらした(今は避難されている)寺の住職さんのお話を聞きました。
 その方は楢葉町で住職をやりながら学校の先生をされていたのですが、先代、先々代のときにはあまりやられていなかった宗教活動を本格的に頑張ったり、農業をやったり、障害者施設を作ったりと、いろいろと精力的に頑張られていた方でした。
 退職後、死というものを意識するようになってからは、人生を楽しまなくちゃ、と思うに至ったそうです。そして、購入した山に山桜、もみじを植え、花見や紅葉狩りができるようにされたそうです(そうしたら町のほうから、山桜の町にしよう、ということで、その会長にまつりあげられたとか)。また、境内に茶室を作り、そこで四季を感じながらお茶を楽しめるようにしたり、茶室のそばに池を作り、池に映った満月を眺めながらお酒を飲めるようにしたりされたそうです。さらには、お孫さんに後を継がせたいという夢をお持ちになりつつ、一緒にどじょうすくいや田植えを楽しんだり、茶室でお茶を飲ませてあげて楽しんだりされていたそうです。
 それが、原発事故で全てパーになった、とおっしゃっていました。
 復興庁の調査で、避難命令が解除されたらもとのふるさとに戻るかアンケートを取ったら、「すぐ戻る」が8%しかいなくて、「すぐに戻らない」が25%だったそうです。なんのために帰るか、を考えたときに、田畑がある人は耕作地が荒れないように耕すために戻るけれども、ない人は帰る理由がない。人がどんどんいなくなる。これでどうして復興ができるのか。避難者には絶望しかない。そうおっしゃっていました。

 僕はその住職さんのお話にとても共感できました。
というのも、人生通して楽しみたいもの、大切にしたいものがようやく僕も見付かったので、それを奪われるということがどれだけ辛いことか、ということが理解できたからです。その住職さんは、70年楢葉町に住んでおり、そこでさまざまなことに取り組まれ、楽しみ、大切なもの、生きがいを積み上げていきました。もしそれらを奪われたら、僕ならば生きる気力がなくなると思います。
 また、ふるさとをかけがいのないものと思ってらっしゃる方にとっては、ふるさとが住めない、元に戻らない、というのは、怒りと絶望以外の何でもないな、と思いました。

 原発は、ひとたび事故が起こると、広範囲の地域が長期にわたって住めなくなる、産業が大打撃を受ける、避難者の健康が損なわれ命まで奪われる、避難区域以外に住んでいる人は常に自然放射線量を超える人工放射線量にさらされ、不安とストレスを与え続ける、など、とても住民が許容できないほどの多大な影響を与えます。原発事故いわき訴訟の原告団長の伊東達也さんは、福島事故は「日本史上 最大にして最悪の公害」とおっしゃっていました。

 また、事故後の福島原発の施設内で働く、原発労働者について、いわき市議の渡辺博之さんからお話を聞きました。
 原発労働者の労働実態は極めて過酷で、常に高い線量を浴びながら作業を行っている。
 それに加え、企業のコストカットに基づくずさんな安全管理と、単価が安いために優秀な人間がどんどん抜けて、技術に詳しい作業員が減ったことにより、事故が多発し、原発労働者がますます危険にさらされる。
 事故収束の見通しも立たない。
 給与は、危険手当が企業にピンはねされて手元に残らない。
 大変劣悪な条件で働かされ、浴びた線量が規定値を超えると解雇。
 使い捨てです。
 「健康被害があっても訴えない」「報道機関からの取材は一切受けない」という念書を書かされ、もし告発者がいたりした場合は、その人の会社ごと切られる(請負が停止される)。
 なので内部からの告発はほとんどなく、企業もその実態を隠すので、ほとんど一般には明るみに出ない。
などでした。
 ひどいのは、線量計の警報音がなっているにもかかわらず、それを無視して、高濃度の汚染水の水溜りの中をじゃぶじゃぶ歩かせたり、汚染水を入れておくタンクのふたがガムテープだったり、クレーンなどの重機が最新型のものではなく古い型のもので、運転手からは「骨董品のようだ」といわれるようなものを使っていたり(クレーンは放射能汚染を受けて使えなくなるので、企業は最新のものをケチって使いたくない。結果、事故が多発している)などです。
 原発労働者の方の中には、福島の復興のため自分が犠牲になってでもやらなければ、と勇気を持って決断をされた方も多いそうです。真剣に日本の未来を考え、世のため人のためという気概で全国から駆けつけた労働者に対し、非常に劣悪な条件で働かせ、ピンはねして搾取し、いらなくなったら捨てる。あまりに理不尽だと思いました。企業のもうけ第一というやり方では労働者の権利は守られないし、事故収束もしないのだと理解できました。

 印象的だったのは、たんに原発ゼロを主張するだけでなく、原発労働者の仕事を確保し生活と健康も保障させていく運動を同時に行うことによって、原発労働者とも連帯できる、この視点を忘れてはならない、ということでした。
 原発をなくすことで原発労働者は仕事がなくなるのではなく、廃炉の作業が30〜40年は続くため、継続して雇用が生まれる、その間に自然エネルギーにシフトチェンジしてそちらでも雇用を生み出せば、原発労働者の雇用は守られると思います。

 政府や東電は、これだけの事故が起きても被害者に対しろくに賠償しようとせず、事故を本気で収束させようとせず(収束宣言や安倍首相の「汚染水はコントロールされている」発言など)、あろうことか原発の再稼動や輸出をしようとしています。その背後に横たわっているのは、資本のもうけ第一の論理だと思います。原発をなくすということは、原発利益共同体とたたかうということにほかなりません。政・官・財・マスコミ等、原発によって利益を得ている集団であり、日本の権力の中枢を握っている集団です。これに打ち勝つのは用意ではないと思います。
 首相官邸前の反原発デモが何年か前から起こり、全国でも反対運動が起こっていますが、そういう運動をどんどん大きくし、連帯を作っていく必要があると思います。

 福島は政府によって県民同士が分断され、対立を抱えこまされました。避難区域とそうでない区域で補償額を線引きするなどによって、たとえば、いわき市役所入り口で「被災者帰れ」の落書きが数箇所で見付かったり、仮設住宅の自家用車のフロントガラスが次々と割られるなど、対立が生まれています。僕は、福島が、基地問題の沖縄のケースのように対立を乗り越え、県民全体が事故の収束、復興のために協力できるようになり、原発をなくすという点でも世論が広がって、一致協力してなくしていけるような福島になることを願っています。(教養学部4年)


宮城・福島スタディツアー(2012年9月)

レンタカーに乗ってみんなで東北地方を訪れました。震災から一年半が経ち復興が少しずつ進んでいる部分もある一方で、まだまだ道のりは遠く、復興は今後数十年の大仕事であり、勝手に風化させてはならないものであると肌で感じました。被災地の多様な立場の方々に被災体験から復興に伴う努力・障害のお話を伺う中で天災による深刻な被害だけでなく、日本社会にもともとあった諸問題が震災を通して表出したのが東日本大震災の一つの側面だと思いました。
(教養学部3年・Y)

福島原発のすぐ近くにある南相馬市を訪れました。放射線量が高く、移住禁止となっている地域を、ガイガーカウンター片手に住民の方に案内してもらいました。家はあるが人は住んでいない。田畑はあっても耕すことは出来ない。村一つが、半永久的になくなるということは、直接その地に立たなければわからない感覚だ。自分の実家がある街が、一つなくなることを想像して、恐ろしくなりました。
原発の安全性を語る時、万に一つしか事故は起こらないという。この言葉は、その「万に一つの事故の重み」を知ってからでなければ使ってはいけない言葉だと思うようになった。
(文U2年・S)



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